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小説:南伊豆町手石漁港女子プロボクシングジム その5



試合ポスター

マリが電柱にポスターが貼っている。うしろで子ども達が見ている。

【10月10日 秋の大祭】

【魚のつかみ取り無料】

【ルミ対キヨシ 夫婦ボクシング対決!】

【手石漁港特設会場 入場料(ジムへの寄付)800円 特設リングサイド5千円(飲みもの付き)】

電柱にポスターを貼り終わって、横に置いていた丸めたポスターの束を持ち上げて、ジョギングを再開する。子ども達は電柱に貼ったポスターを食い入るように見ている。

マリがコンビニに入っていく。レジにいた女性に向かって礼をする。

「ちーす」

レジにいた女性、親しげに笑う。

「おー、マリ」

マリがレジに近づいて言う。

「先輩、これ貼ってくんないすか?」

先輩、ちょっと顔がくもる。

「ボクシングの?うーん、ルミちゃんのこと応援してんだけどさー、うちダメなの。悪いけど」

マリが「えー」という顔をする。

「タダオさん、反対ですか?」

先輩、顔をくもらせたまま言う。

「そーなのよー。あんな男尊女卑なヤツだなんて知らなかった」

マリが食い下がる。

「先輩、応援してくださいよー」

先輩、顔をくもらせている。

「そーしたいけどさー。あ。リングサイドは買うよ。あんたに頼めばいいんだろ?1枚で悪いけど」

マリ、あたりを見回す。

「あざーす。今度チケット持ってきまーす。あ。あそこのポストの横どうすか?タダオさんに見つかったら、あたしが勝手に貼ってったってことにして」

先輩、ちょっと考える。

「よし。いいね。ちょっとした反抗。許す」

マリは満面の笑みで一礼する。

「ちーす」

マリがコンビニの外に出て、ポストの横にポスターを貼っている。派手なアロハを着た若者3人組が近寄ってきた。

「マリ、夫婦ボクシングの試合ってほんとにやんのか?」

マリは振り返って一瞥して、もとに戻ってポスターを貼り始める。ダルそうに言う。

「やるよ」

3人組の太めの男が笑う。

「バッカじゃねーの。女が男に勝てるわけねーじゃん」

マリ、振り返らせずに言う。

「それは、やってみないとわかんないよ」

別の痩せた男が甘い声を出す。

「マリ、今度、箱根行かねーか?オレ、車買ったんだ」

マリ、振り返らずに言う。

「行かない。練習あるもん」

太めの男が言う。

「1日くらい、オレたちに付き合ってくれよー。オレのアソコでKOしてやっからー」

3人組が爆笑した。マリが振り返る。太めの男が続ける。

「オッパイちっちゃいのは気にすんな。オレ、我慢すっから」

マリが「ち」と舌打ちして、急に動いて太めの男に右手で軽くビンタを食らわせる。太めの男、ビックリする。

「な、なにすんだ」

マリが、太めの男の右脇に左フックでビンタを軽く食らわせる。続いて、右フックで左ホホに軽くビンタを食らわせる。太めの男、右脇と左ホホを押さえて呆然とする。マリが言う。

「あー、殴りてー。お前らなんか、弱っちいのにぃー。ちくしょー」

マリは横に置いていた丸めたポスターの束を持ち上げて、ジョギングで去って行く。

「えぇーっ?!ダメなのー!?」

マリがコーチに抗議気味に言う。コーチがゴハンを食べながら答える。

「ダメでしょ」

机には、ミッコ、ルミ、マリ、コーチが座っていて、夕食を食べている。マリが同意を求めるようにルミに言う。

「ねー、ルミちゃん、ダメ?」

ルミが言う。

「うーん、セーフのような気もするけど、、、」

ミッコが口をはさむ。

「セーフでしょ」

コーチがちょっと驚いて、ミッコを見る。

「セーフですか?」

ミッコ、自信ありげに答える。

「セーフよー。そんな無礼なこと言われても女は黙ってろなんて、ヒドいじゃない」

コーチ、ゴハンを食べながら、少し考えて、言う。

「じゃ、セーフ」

マリとルミが驚く。

「え、えぇー!」

「えぇー!?」

コーチ、二人が驚いたことに驚く。

「え?なに?」

マリとルミとコーチ、3人でちょっと見つめ合う。マリが口を開く。

「だ、だって、ミッコちゃんの言うことはスッキリ通るの?」

コーチ、「なーんだ」というふうにゴハンを口に運ぶのを再開する。

「通るでしょ。ミッコさん、賢いし。婦人会長だし。ビジネスも繁盛させてるし」

マリとルミ、コーチを見てる。ミッコも見てる。思いがけないことを言われて、コーチ以外は動けない。時計の針がカチカチ鳴ってる。コーチだけがゴハンを食べている。沈黙に耐えかねて、マリが尋ねる。

「じゃ、じゃ、じゃー、あのバカと試合していい?」

コーチ、ゴハンを食べながら「うーん」と考える。

「ミッコさん、どーすか?」

ミッコ、話を振られてちょっと驚く。

「どうかしらねー。あんまり男と試合ばっかりしてるジムってのもねー」

コーチ、マリの方に目を移す。

「ダメだって」

マリとルミが驚く。

「え、えぇー!」

「えぇー!?」

コーチ、二人が驚いたことに驚く。

「え?なに?」

マリとルミとコーチ、3人でちょっと見つめ合う。マリが口を開く。

「やっぱり、ミッコちゃんの言うことはスッキリ通るのね」

コーチ、「なーんだ」というふうにゴハンを口に運ぶのを再開する。

「通るでしょ」

コーチだけがゴハンを食べている。3人はコーチを見てる。時計の針がカチカチ鳴ってる。


自治会長


漁港のはずれでコーチとマリとクミが釣り竿を持って糸をたらして、ボーッとしている。じーちゃんが漁港の方からやってくる。

「よー、コーチー」

親しげに声をかけてくるので、コーチは思いきり愛想笑いで答える。口の端で横にいるマリに尋ねる。

「誰?」

マリが小さな声で答える。

「自治会長。この前のコンビニのバカのじいさん」

自治会長がコーチの横に農民座りで座った。

「釣れる?」

コーチが海を見て答える。

「まーまーです」

自治会長はコーチを見据えて言う。

「コーチよー、女どもがボクシングやるのはいーんだけどよー、あんまり町に揉めごと起こさねーでくんねーかなー」

コーチ、海を見ながら言う。

「具体的には?」

自治会長がコーチを見て言う。

「女が男にケンカふっかけるとかさ、、、」

コーチ、ふつふつと腹が立つが、海を見て落ち着きながら言う。

「マリちゃんが卑猥で無礼なこと言われて、相手に軽いビンタするとか?」

自治会長、海を見て言う。

「まー、そんなような、、、」

コーチ、どんどん腹が立ってきたが、つとめて海を見て落ち着いて言う。

「つまり、女は男に何を言われても黙って聞いてろ、と?」

自治会長、海を見て言う。

「うーん、まー、、、」

コーチ、努めて冷静に、でもキッパリと言う。

「お断りします」

「な?」

自治会長、怒ったような顔でコーチをジッと見る。コーチはノンキな顔で海を見て釣りをしている。マリはニヤニヤ笑っている。あんまり自治会長が見ているので、コーチは我慢できなくなる。自治会長を見据えて言う。

「なに見てんだ。この差別主義者。あっち行け。ぶっとばすぞ」

マリが笑いながらビックリする。

自治会長はちょっとおびえた顔で勢いよく立ち上がって数歩あとずさりし、反転して去って行く。去り際、少し離れたところで「ぺっ」とツバを吐いた。マリ、笑う。

「言うねー」

コーチ、ノンビリ生みを見ながら言う。

「あーゆー、訳知り顔で下らないこと言うじーさんが大嫌いなんだ。何のために長生きしてんだ」

風もなくのどかで、漁港の釣りには最高の日だが、コーチは何も釣れなかった。

スナック「ゆうこ」の看板に灯りが入っている。カウンターで、自治会長が、他の2人に息巻いている。

「ふざけやがって、あいつ、、、」

一人が同意する。

「そーだそーだ。なーんか最近、うちにかーちゃんも面倒くさいこと言い始めたぞ」

ユー子がカウンターの向こうで水割りを作っている。谷間は出していない。ピッチリとした服。3人に水割りを渡す。

「どーしたのー?ダイジくーん」

自治会長、ユー子を見てイヤらしい笑顔を浮かべる。

「ユー子ちゃーん、今夜も可愛いねー」

ユー子、愛想笑いで答える。それを見て自治会長が言う。

「その笑顔がいーなー。心からの笑顔。それを見に、つい寄っちゃうんだよねぇ」

トンチンカンなこと言ってらー、と思いながら、ユー子が一礼する。自治会長が尋ねる。

「ユー子ちゃん、ボクシング行ってるの?」

ユー子が答える。

「うん。行ってるよ。ちょっと引き締まったでしょ?ほら、、、」

ユー子がクビレを両手でなぞる。セクシーだ。あきらかにセクシーだ。じーさんたちが強く見つめる。自治会長、クビレを見つめながら尋ねる。

「ボクシング楽しい?」

何を意図して質問しているのかわからないので、ユー子はとぼけてみた。

「うーん、、、」

自治会長がたたみかける。

「あのコーチってのはどう?ヤなやつ?」

あぁ、この人はジムの悪口が言いたいんだなと見切り、乗ってみた。

「うーん、まー、直木賞をハナにかけてるっていうかー、、、」

ピッタリきたらしい。自治会長の目が輝いた。

「そーだろー?そーだと思ったんだ。あんなやつ追い出せばいいんだ」

別のじーさんが提案する。

「年末の総会でジムやめさせればどう?」

自治会長が喜色を浮かべる。

「おー、それいいな。それいい。それで行こう。それで調整しよう。男どもに声かければ、何とかできるべ?」

スナック「ゆうこ」のドアを開けてキヨシが入ってきた。自治会長が喜ぶ。

「おー、キヨシー、こっち来い、こっち来い。いや、テーブル行こう、テーブル」

自治会長はキヨシの肩を抱きながら、みんなでテーブルに移動する。

テーブルに座って、自治会長が話しかける。

「どーだ、キヨシ。練習うまく行ってるか?ルミに勝てそうか?」

キヨシがせせら笑う。

「ダイジさん、なーに言ってんの。女に負けるわけねーっしょ」

自治会長、破顔する。

「そうだよな。そうだ、そうだ。よし。今日はオレのオゴリだ。好きなだけ飲め。ユー子ちゃーん、オレのボトル出してー」

ユー子がカウンターから声を上げる。

「ダイジくーん、ボトルなくなるよー。新しいの入れてー」

自治会長がユー子に言う。

「おーし。入れっぞー。ユー子ちゃん、サントリーの高い方入れっぞー」

ユー子、カウンターの向こうで喜ぶ。

「わーい。さーすが自治会長!」

キヨシや他のじーさんも喜ぶ。

「自治会長ー!」

「自治会長ー!」

盛り上がりが始まった。

手石漁港の朝焼けは、ほぼ見渡す限りの水平線に太陽が昇り始め、光の帯が左右に広がっていく。まるで希望を見るようだ、と、ルミはいつも思っている。

朝焼けの手石漁港を、ルミとマリがランニングしている。

ルミが何かを見て、急に立ち止まる。マリ、少し走ってからルミが止まったことに気づき、後ろ走りで戻ってきて、ルミの見ている方を一緒に見る。漁協のあちら側、少し遠くで、キヨシと自治会長とじーさんが酔っ払って、嬌声をあげながら、フラフラ悪いている。それをルミは見ていた。マリが言う。

「キヨシさんじゃん。まーた飲んでるよ」

ルミはジッと見ているが、急に口を開く。

「ボクシング始めて思ったんだけど、、、」

少し遠くで、キヨシと自治会長たちが大声で歌い始めた。ルミが続ける。

「あいつら、つまんねー人生送ってんなー」

マリが言う。

「くぅー。ルミちゃん、かっちょいいー!」

ルミ、マリに横顔をわざと向ける。

「よせやぃ。照れるぜ」

裕次郎みたいな口調でつぶやき、ルミはまた走り始めた。マリもそれについていく。


対応策


午後イチのジム。数人の奥さまたちが練習をしている。コーチがジムに入ってくる。コーチが「おーす」と言うと、「ちーす」という声がジムのあちこちから帰ってきた。コーチがイスに座ってジムを見回すと、ユー子が新しいウェアで練習していた。谷間を出している。コーチ、困り顔。

ゴングが鳴って、ユー子がコーチの横に座った。胸ごと体をひねって、すこし甘めの声でコーチに言った。

「おはよー」

コーチはユー子を見ないでリングの方を見ながら言う。

「おはよ」

ユー子は不満げ。

「なによ。見てよ。今日の新しいウェア。可愛いでしょ?」

コーチが困り顔で答える。

「だ、ダメだよ。みんなに怒られるから。見たいけどさ。すごく、見たいけどさ」

ユー子、不満げに実力行使に出る。

「そんなの気にしないでさ。ほらほら、、、」

両手で乳を持って揺すりはじめる。コーチ、見たそう。すごく、見たそう。必死に目線をとどめている。両膝に置いた手を握りしめている。

「だ、ダメなんだよ。見たいけど。すごく見たいけど、ダメなんだ」

ユー子あきらめて前を向いた。

「ちぇ。あのさ、昨日さ、お店に自治会長たちが集まって、キヨシが勝ったらその勢いでジム閉鎖しちゃおうって話してたよ」

コーチ、ビックリしてユー子を見る。そして、つい視線を落として谷間を見る。ユー子、声をあげずに口を大きく横に広げて笑った。

「なにーぃ!」

漁協長が声をあげた。ユー子が説明する。

「ソーカイ?とかでなんかやるって言ってた。だから、こっちも対策練らないといけないでしょ?」

漁協長がユー子の肩に手をかける。

「そーだ。その通りだ。ユー子、ありがとう」

ミッコの老人ホームの入口。広いスペースに置かれた丸机にユー子、コーチ、漁協長、ミッコが座っている。回りでじーちゃん3人、ばーちゃん5人がシャドーボクシングをやっている。ジャブを出しながら、進んだり退いたりしている。コーチをしているルミが声をかける。

「はーい、ワンツー、ワンツー、、、」

ミッコが言う。

「でも、あいつ、人望まったくないから、そんなに人集まらないでしょ?」

漁協長がうなづく。

「まーなー。でも、何かの拍子でトラオあたりが乗っかっちゃうと面倒だべよ?」

ミッコが言う。

「そりゃ、そんなことになったらユー子が教えてくれるよ。ねー?」

ユー子、うなづく。

「うん。あたし、みんな大切なお客さんだけど、漁協長派だから」

漁協長、うれしそうに笑う。ユー子がコーチの方に胸ごと向けて続ける。

「あたし、イチロー君に助けてもらったことがあるの。小学校の時。その時から漁協長派なの」

コーチ、つい谷間をみて言う。

「へー。漁協長、覚えてるの?」

漁協長、即答する。

「覚えてない」

ミッコが笑う。

「イチローは子どもの頃から偉いからね。人気あるからね。そこが自治会長との違い」

4人笑う。ミッコが漁協長に尋ねる。

「JBC加盟どう?」

漁協長が困り顔で答える。

「ダメだなー。もう二十社以上の声かけたけど、ダメだわー。ちっちゃい金額なら強力してくれるけど、1千万円は無理だわー、、、」

みんな「うーん」と考え込む。じーちゃん・ばーちゃんが前にステップを踏み、次に後ろにバックしながらシャドーボクシングをしている。だいぶ上達している。それを見ながらユー子が言う。

「ミッコちゃん、出してあげなよ。お金持ちなんだから」

ミッコが顔をしかめる。

「そら、出せれば出したいよ。でもさ、このホーム作るのに無理して借金したから、首回らないんだよー」

ユー子が心配そうな顔をする。

「あらー。そう。あたしんとこもお客さん減ってるしなー」

漁協長が言う。

「みんなで少しづつ出し合うか?」

コーチが言う。

「でも、そうすると、権利関係が複雑になって、みんなが元気なうちはいいけど、数十年後に問題になるような、、、」

漁協長が困り顔で言う。

「あー、そーかー」

4人で「うーん」と考え込んでいる。その横でじーちゃん、ばーちゃんがシャドーボクシングをしている。

試合前

10月の空に、昼間なのに花火があがった。「秋の大祭り」開催の合図だ。

手石漁港には屋根付岸壁にリングが設置されている。回りに300席ほどのイスが置いてある。照明も4機用意してある。

イスの後ろに立って漁協長がリングを見つめている。母レーコとトモ子が近づいてきて、横に立つ。トモ子が言う。

「フンパツしたのねー。照明まであるらー!」

漁協長、照れ笑い。

「男共に評判悪いしさ。スポンサー候補にいいとこ見せないといけないしさ。それに、有料席が割と売れたからさ、ある程度ちゃんとしないと」

母レーコが笑顔になる。

「ルミ、勝たないとねー」

漁協長が同意する。

「そうだよ。勝たないと」

向こうで関係者が呼んでいるので、漁協長は去って行った。母レーコとトモ子はリングを見続けている。トモ子が踏ん切るように言う。

「ぢゃ、やっか!」

母レーコが気合いを入れて同意する。

「おーし!」

トモ子の車の後ろをあけて、クーラーボックスを取り出す。母レーコが受け取って抱える。硬い表情で漁協1階の作業所前で止まる。二人とも深呼吸をして、おおげさな作り笑顔になって、トモ子を先頭に作業所に入っていく。

「おーす。調子どうー?」

中にはビックリした顔のキヨシや自治会長たちがいた。自治会長がビックリしながら言う。

「な、なんだ?お前ら、何しに来たんだ?」

トモ子が特大の作り笑顔で答える。

「何しにきたって、激励じゃなーい。スポーツマンシップじゃなーい。はい、差し入れ〜」

母レーコがクーラーボックスをあげて缶ビールを取り出して掲げる。

「みんなの分もあるよー」

自治会長、さらにビックリしながら言う。

「なんだよ。おい。試合前に飲ませるのか?」

母レーコが特大の作り笑顔で答える。

「だってぇー、「女相手なら楽勝だ」って、キヨシも自治会長もいつも言ってたじゃないーい」

キヨシ、微笑する。

「そりゃ、楽勝だ」

トモ子が聞きとがめる。

「そしたら、ビールぐらい飲むでしょー?はい。カンパイしよ〜」

ハートマークが出てきそうな勢いで缶ビールを手渡そうとする。自治会長が声を荒げる。

「やめろ、やめろ、キヨシ、飲むな、飲むな」

母レーコが高い声で言う。

「なーにー、いつもエラそうに言ってたのはウソだったのー?」

キヨシが素早く母レーコを見て言う。

「ウソじゃねーよ」

母レーコが尋ねる。

「楽勝なんでしょ?」

キヨシが言う。

「楽勝だよ」

トモ子、すかさず缶ビールを渡す。

「はい。じゃ、カンパーイ!」

自治会長、キヨシが持った缶ビールを取り上げる。

「やめろ、やめろ、キヨシ、飲むんじゃない。飲むんじゃない」

自治会長、友人たちに言う。

「おい、みんな、こいつらをつまみ出せ」

母レーコとトモ子、つまみ出される。つまみ出されながら、トモ子が大声で言う。

「けっ、このほら吹きー。お前みたいな格好つけてるだけで中身のないやつが勝てるわけないだろー。ルミの左フック見て驚くなよー。ボケー」

母レーコもかぶせる。

「ボケー」

クーラーボックスを抱えて冷静な顔をした母レーコとトモ子が、普段はジムになってるプレハブに入ってきた。中ではルミがイスに座っている。コーチが肩をもみ、マリが足をもんでいる。ルミのTシャツには裕次郎の顔がプリントされていて、「オレは待ってるぜ」と大書してある。トモ子が悔しがる。

「惜しかったよー。もうちょっとでキヨシにビール飲ませられたのに、、、」

母レーコが笑う。

「惜しかったねー。自治会長がいなきゃなー。あいつ、格好つけだからイケそうだったのになー」

コーチとマリが「はははは」と笑う。ルミは笑わず、一点を見つけている。コーチがそれに気づき、みんなに声をかける。

「ま、ま、ま、ちょっと外で話しましょう」

ジムのプレハブの回りにイスとテーブルが並べてある。お祭りに来た人が、屋台で買ったものをたべている。そのテーブルの一つに座って、マリ、母レーコ、トモ子、コーチが缶ジュースを飲んでいる。コーチが言う。

「試合前はねー、キンチョーすんだ。あんまり喋りたくなくなるの」

みんな納得する。母レーコが言う。

「そうだろーねー」

みんな缶ジュースを飲む。マリ、コーチの正面に座っている。

「あれ?」

みんながマリを見る。マリが笑いながら言う。

「コーチ、コーヒー飲みながら目をつぶって、飲んだ後もつぶってる」

母レーコとトモ子が驚く。トモ子が言う。

「コーチ、その缶コーヒーも一度飲んでみて」

コーチが缶コーヒーを飲む。目をつぶってる。飲んだあと、缶コーヒーを置くまで目をつぶってる。母レーコとトモ子が笑う。

「はははは。ほんとだ。つぶってる。」

「なになになに?キンチョーしてんの?」

コーチ、困り顔で言う。

「うーん、キンチョーしてんのかなー」

母レーコ、笑いながら言う。

「なんでコーチがキンチョーすんのよ?」

コーチ、驚く。

「するでしょ?あたりまえでしょ?あんた達もキンチョーしなさいよ」

トモ子が笑う。

「まーまー、外野がキンチョーしたって、しょーがないんだから」

コーチが嘆く。

「やだなー。もー。あんたたちは大雑把で」

母レーコが笑う。

「そーだよねー。だから、アタシたち直木賞取れないんだよねー」

マリ、母レーコ、トモ子がケラケラ笑った。コーチは苦笑しながら缶コーヒーを飲んだ。やっぱり目をつぶっている。3人がそれをみて、やっぱりケラケラ笑った。


ダウン


日が暮れかけて、夕陽が漁港を照らし始めると、リングの周りに用意された席にだんだん人が座り始めた。最前列に母レーコとトモ子と漁協長が座っている。その横にミッコとばーちゃん3人が座っている。ばーちゃん達がみんな裕次郎の写真のTシャツと「お前にゃオレがついている」と書いたハチマキをしめている。その真後ろの二列目にユー子が一人で座っている。

日が暮れようとしている。

照明器に灯りが入った。

漁協の若い事務員がマイクを持ってリングに入ってきた。場内がざわつく。事務員は、手に持ったメモを見ながら、たどたどしく喋りだす。

「え、長らくお、お待たせしました。え、こ、これより本日のイベント、ボクシング夫婦対決3回戦を開催いたしまーす」

照明が2つ、漁港の入口の方を指した。漁協の建物の右と左に光があたる。

まず、漁協の建物の右からキヨシと友人二人が出てきて手をあげた。音楽がかかる。ハードメタルでうるさい。キヨシと友人二人はノリノリでリングまで歩いていく。歓声があがる。

今日は控え室になっているプレハブの中でジッと座ってるルミ。その前に立ったままのマリとコーチ。ハードメタルの入場曲を聴いて、マリがつぶやく。

「なんか、本格的ねー」

コーチはうなづいた。

曲が石原裕次郎の「オレは待ってるぜ」に変わった。原曲だ。ルミが顔を上げて目を輝かせた。

「裕ちゃんだ。やっぱ、大っきい音で聞いてもうまいなー。いやー、お尻にキノコ生えてきそうだから、早く入場しよー」

石原裕次郎の「オレは待ってるぜ」に乗って、ルミ、マリ、コーチが漁協の建物の左側から出てきて、花道をリングに向かう。ばーちゃん3人が立ち上がって「オレは待ってるぜ」を唱和しながら、ルミに手をふっている。

ルミがリングにあがって両手をあげた。歓声があがる。ルミが笑顔でコーチに言う。

「気持ちいいね」

ふと相手陣営を見ると、コーナに寄りかかって、キヨシがルミを睨んでいる。ルミが笑う。

「ふふ。弱いくせにイキがってる。カッコわる」

コーチがたしなめる。

「自信持ちすぎはよくないぞ。慎重に行けよ」

ルミは「フン」とあしらって言う。

「だいじょぶだよ。あんなの。日本ランカーの上岡選手に比べれば」

レウリーが両者がリング中央に呼んだ。リング中央で両陣営がにらみあう。なかなか本格的で、ほんとの試合みたいだ。レフリーがなにか注意を与えている。

ルミとコーチがコーナーに帰ってくる。コーチはルミの目を見て言う。

「一発狙っちゃだめだぞ。流れだぞ。流れの中で決めるんだ。リラックスして動けよ」

ルミが力強く答える。

「はいっ」

ゴングが鳴る。

ルミが勢いよく2、3歩前に出る。

キヨシはコーナーで動かない。

コーナーポストの下から見ているコーチとマリ「?」となる。

ルミがもう2、3歩前に出る。

キヨシはコーナーで動かない。

ルミが左ジャブを入れてみると、キヨシが大きく横に逃げる。マリがそれを追うと、キヨシはもっと逃げて、二人でちょっと追かけっこみたいになった。

場内が笑いに包まれる。自治会長はリングを指さしながら、横にいる友人に嘆く。

「なーにやっとんだ。あいつは?」

キヨシ、コーナーに追い詰められる。ルミはそれを見ている。コーチの声がする。

「慎重に行けよー、慎重に行けよー」

ルミが左ジャブを出す。あたる。

ルミが左ジャブをもう一回出す。あたる。

ルミがワンツーを出す。それにサダオが右のパンチを合わせてきたが、あたらなかった。

コーチがつぶやくように言う。

「あいつ、カウンター狙ってんなー」

マリが驚く。

「えー?女相手に負けるわけがないから、対策なんか何もないんじゃないのー?」

コーチがリング内を見ながら唸る。

「うーん。さすがに対策練ったんだろーなー」

会場に笑いが起こる。またキヨシが横に逃げ始めた。

ルミがコーナーのイスに座っている。マリがペットボトルから水を飲ませている。マリの正面に立って、コーチが言う。

「相手はカウンター狙ってるぞ。気をつけてけよ。リラックスして、一発狙うなよ」

マリは対角のキヨシを見た。ハーハー肩で息をしている。

「たぶん、あいつスタミナ持たないんで、こっから思い切って行っていいすか?あと2ランドしかないし」

コーチ、振り返って対角を見る。

「うーん。ま、行ってみっか。負けることはないだろ」

ゴングが鳴る。

ルミがリング中央に出て行くが、キヨシは近づいてこない。ルミを中心にして、大きく回っている。ルミが近づいていくと、少し距離を取る。

「キヨシー、何やってんだー、真面目にやれー」

「キヨシー、ちゃんと戦えー、オレは5千円も出してんだぞー」

会場からヤジが飛ぶ。

ルミ、一つもパンチを打たず、ジリジリとキヨシをコーナーに追い詰めた。そこで左ジャブを放つ。あたる。もう一つ左ジャブを放つ。あたる。

しかし、キヨシはガードを固めて手を出してこない。

ルミはガードを下げて後ろに下がる。両手で「打ってこい」というジェスチャーをして挑発する。会場からどよめきが起こり、大きな喝采が起こった。

カッコつけ男は、人に「カッコ悪い」と思われたと感じると、それを取り消すように一段とカッコをつけはじめる。カッコよくもないのに。だから、キヨシは急に右ストレートを打ち込んできた。ルミが軽く避けると、キヨシはリング中央まであたふたしながら行き過ぎた。

ルミが猛然とラッシュを始めた。

左ジャブ、左ジャブ、右ストレート、左ジャブ。みんな当たるが、キヨシが下がりながらなので、決定打にならない。

マリがコーチの上着の裾を握って言った。

「あたってる、あたってる」

コーチは少し不安そうな顔。

「ガードが下がってんなー」

ルミはラッシュを続けてキヨシをさっきと逆にコーナーに追い込んだ。色んなパンチを打ったのに決定打にならないので、珍しく右フックを打とうと左腕で勢いをつけた。つまり、左のガードが下がった。そこへ、キヨシの右ストレートがカウンターで決まった。

ルミはコロンと横にころがった。

会場から大きな歓声があがる。

マリ、コーチの腕を両手で持って困惑している。

コーチはリングを両手で叩きながら、大声でルミに呼びかけた。

「ルミー、ルミー、」

レフリーがカウントを取っている。

「3、4、、、」

キヨシは自分のコーナーで両手をあげている。

コーチはリングを両手で叩きながら、ルミを呼び続けている。

「ルミー、ルミー、」

マリも声を上げている。

「ルミちゃーん、ルミちゃーん、」

ルミはぼんやりとしているが、コーチとマリの声がするので、そちらを向く。マリとコーチがリングを叩いて大声を出していた。

「ルミちゃーん、ルミちゃーん、」

「ルミー、ルミー、だいじょぶだー。落ち着けー。落ち着いて、ゆっくり立てー」

ルミがレフリーを見ると、カウントを数えていた。自分は倒れたんだと気づき、急いで立ちあがってファイティングポーズを取った。

会場から大歓声があがる。

母レーコもトモ子も漁協長もユー子も、ミッコもばーちゃん3人も、立ち上がって、必死に大きな声を出している。

レフリーがルミの表情を確認して、少し前に歩いてみるように指示する。ルミはファイティングポーズを取って、ちゃんと歩いた。

レフリーが再開を指示した。

キヨシがヘンな格好でパンチを出しながら、たたみかけてきた。リングサイドでコーチが叫ぶ。

「あと15秒だー。ガードしろー、ガードでしのげー。頭振れー、頭振れー、スウェーも使えー」

ルミは、頭を振って冷静にガードに徹した。こうなるとキヨシの手には負えない。ほとんどパンチがあたらず、ゴングが鳴った。


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