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ワクチンをうつを決めるまで

打ち終えて、経過観察、待機の間、ただただ感謝の感情があふれてきた。

私は迷っていた。打つのかうたないのか。人二十倍くらいの怖がりであるがゆえ、私にとっては、怖い情報ばかりだった。

どちらを選択してもよいはずなのに、世の中の情報に流されてうつ、恐怖からうつことには、どうしても進まなかった。
信頼できる人に、どちらが正解かは、誰にも分らない。
両方の情報をバランスよく見て考えることが大切と言われ、腑に落ちた私は、今まで見ようとしなかった情報を見ることにした。

テレビでは伝えられていない情報もあった。
私にとって、知るということは非常に重要で、わからないまま怖がっていたことの情報が減り、データとして何割何があるか、アナフラキシーがあらわれるのは15分以内が多くそれに対応できる処置の用意があり、対応が可能だと知った。他にも知らなかったことにふれ、理解が深まり受けようと思った。

心は決まった。
がしかし、市の予約を開くとすでにいっぱいっだった。
窓口に電話をしてきいてみた。
新規に受付をするのは半月後の市報で伝えられることと、この電話でキャンセルがあり、タイミングが合えば受け付けてもらえると教えてくれた。
仕事の休憩時間に何日かかけたが、キャンセルはなかった。
仕事を転職したのが8月下旬で、今は先輩と同行する予定がどんどん入ってくるため、自分の予定の空き具合との兼ね合いも考えると難しいなという不安もあった。
上司と外出があり、帰りに伝えておこうと思い、言った。
「ワクチンを打とうと思っているんですが、予定が入ったらお休みをいただくことになるかもしれません。」
「いいよ。大事だから。で、いつ?」
「なかなか予約が取れなくて、そういうことがあるかもしれないということで。」
と。
帰社時間がちょうどお昼になり、上司と他の同僚が楽しそうに会話をしていた。電話をしてみた。
まー、またないんだろうなーと。
「明日の14:50がありそうなんですが。」と。
「ありそうというのは、どういうことですか?」
「共有して見ているので、入れてみないとわからないんです。」
「なるほど。入れてみてください。」
「少々お待ちください。」
「はい。」
保留の音楽が流れる。ドキドキもせず、無だった。
「取れました。」
翌日は在宅勤務予定だったのを欠勤(まだ試用期間のため)にしてもらった。

当日、朝から何とも言えない気持ちになっていた。
やっぱり、怖い気持ちはある。
ユーチューブで瞑想を見たり、たまたまボイシ―で叶っていないことでもかなった状態の感謝の気持ちを先にイメージできるとよいみたいな話を偶然きき、打ち終わった後を想像してみたりした。この情報はわたしにとっては、とてもよかった。

集団接種。
効率よく、予約時間単位で15人くらいずつ、椅子に腰かけられるようになっていた。何列だろう。4,5列だろうか。
時間になると、順番に受付問診、接種の場所にうつった。
先生がまるいころころのついた椅子に腰かけ、移動してくる。
「はーい、お待たせしましたー。アルコールに反応はありますか?」
「はい、ちくん。」
を、何十人にも言っているのを見て、ちょっと笑った。
その口調とスピード感、声の感じも喪黒福造(もぐろふくぞう)だったから。わざと和ますために言っているのか、もともとの人柄なのか、、、。
どちらであっても、緊張するわたしにはありがたかった。
マスクの中で、わたしはずっと深呼吸をしていた。

その順番は、わたしにやってきた。
「はい、ちくん。」
全然、痛くなかった。今まで打った中で一番痛くなかった。
それにも驚いた。
打ち終えたわたしは、そのままの席で15分待つことになった。
わたしがうつを決めるまでに、関わってきた人や、きっかけや話題にしてくれた人、全てを思いだした。
この異様な着席スタイルに次々に対応している看護師さん、お医者さんに、まず感謝した。交代にしても、これを何日もやるのかと考えたら、大変なことだと思ったし、ありがたいと思った。
わたしにはタロットの勉強仲間がいる。看護師をしている仲間を思い出した。直接、今、目にしている形ではないにせよ看護師という仕事をしている仲間に感謝が浮かんだ。
テレワークが続いて話せなくてきついから話したいと言ってくれた仲間にも感謝が浮かんだ。彼女の心情を聞いたお陰で、今のテレワークの現状を知り、面接の時に質問されたことにそのエピソードがでてきたということがあった。
転職先に初出社した日、隣の席の同僚が二回目をうって休んでいたこと。
夫は、打たないを決めていた。押し付けたり、誘導はしない人だった。前職の職場で親しくなった元同僚が、たまたま彼女自身が打つという前日にラインをくれ、彼女が打つと知ったこと。


なんだかわからないが、涙がでてきた。
ありがとうという思いと、少しほっとした気持ちもあったのかもしれない。

自分で決めるということ。自分のこころの声を聴くこと。
自分で責任をとるということ。
小さいこと、大きいこと色々ある。
ずっと、やってきていたようで、してきてなかったのだと思う。
7年くらいかけて少しづつ、やってきた。
まだまだ、これからもやっていくのだと思う。


決して、うつことを勧めているわけではなく、どちらを選んでもよいことだということ。そう思っている人がいるということ。
正解はないし、誰にもわからないことだということ。

自分のこころが動くほうを、みていきたいと思う。



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