見出し画像

もがいて生きてきた

私が生まれたのは、1985年。

幼い頃は、子どもが多い賑やかなところで育った。

「人は、話せば友達になれる」

と大変楽観的な人間観があったのは、私を育ててくれたその海が見える街のおかげだった。

いつも校庭で、広場で、空き地で、何人もの友達と走り回って遊んだ。

両親に兄弟、優しい祖父と祖母に囲まれて、
とても幸せな子ども時代。

まるでその先の苦難を知っていたかのように、

“永遠に今が続けばいいのに”

と思っていた。


7歳の頃だった。


***

その後転校して、人間関係で苦労することが増えた。
中学校時代には、家では両親のケンカが絶えず、学校では陰湿な嫌がらせや人間関係のいざこざが絶えなかった。
自分を取り巻く世界を監獄のように感じていた。

「中学校は3年間で終わりだから」

その言葉を握りしめて、いざ高校に進んだときには、嬉しいとか楽しいとか安心するといった良い感情がわからなくなってしまっていた。

自分の中には、ひどい緊張と押し殺してきた怒り、嫌悪感。そんなものだけが親しい感情だった。

怒り、憎しみ、やるせなさ、虚無感。

それらの感情が抑圧したところから一気に恐ろしいほど湧き上がった。

そんな自分を誰よりも憎み、嫌った。

強すぎた精神ダメージは脳の機能にも影響を与え、記憶することや文字を読むことがそれまでと比べて極端に難しくなってしまった。大好きだった漫画ですら、読めなくなってしまった。

その深い絶望から立ち直ろうと、長い長い旅が始まった。


***

まず、記憶ができにくいので、よほどでないと人の顔と名前が覚えられない。だから、人と話すときはいつもひどく緊張した。自分のあふれる憎しみで嫌な思いをさせてしまうんじゃないかとたまらなく怖かった。

当時、15歳。急速に内面が複雑になっていく中で、本がろくに読めないので自分を理解する力を深めることができない。

自分の中の激しい衝動を怒りを、やるせなさを解消する方法が見つけられず、湧き上がる憎しみを押し殺してはからだが鉛のように重くなった。

電話相談に電話してみたことがある。
「身近な人に相談しては」と回答をもらった。

しかし、母は自分のことでいっぱいで、話しても問題視することはなかった。父は単身赴任や長時間労働が常で、普段ほとんど顔を合わせなかった。また、人の気持ちを汲み取ることが極端に苦手な人でもあった。

学校の同級生たちに相談したかったが、出会ったばかりの人たちに話をするには、あまりにも自分の状態は自分の中の常識を超えていた。誰に話しても重荷になるだろうし、理解は難しいだろうと思った。私が逆の立場だったら、到底理解できない。


メモに何度も何度も何度も

「苦しい」

と書きつけた。


そんなことしか、できなかった。


***

大学では心理学を学んだ。しかし、当時の臨床心理の先生が話された人の心を機械のように扱う考え方に馴染めず、サークル活動に没頭していく。海外の山奥にある村に行って、インフラ整備をするとともに、村人の心のケアをするという活動だった。

村人たちが喜んでくれる姿を見せてくれたこと。

この人生において、何よりのプレゼントだったと思う。

いい仲間にも恵まれた。

でも、記憶がうまくできないので、友達と思い出を共有することが難しかった。

大学に入ってからも、嫌いな中学校の記憶は壊れたテープレコーダーのように頭の中を回り続け、その状況を何年経っても変えられないことが、私を深い絶望へと追いやっていった。

“今日、目の前の人が笑ってくれたら、生きた意味があったと思おう”

そう思いながら、自分の感情と記憶力、読解力を取り戻すために、試行錯誤する毎日だった。

後ろを見ると、自分の中にある深く暗い谷底に落ちて上がってこれなくなる。

そんな恐怖感があった。だからとにかく動き続けた。日々徹夜でレポートをこなし、サークル活動に没頭し、隙間時間はバイトで埋め尽くした。

家にいる時間は極力少なくした。

深い悩みの底にいた母との確執は深まるばかりで、母の言葉に私はいつもこれ以上ない深手を負った。

共感者を痛いほど求めていた母は、いつも私が違う感情を持っている人間であることを認めてくれなかった。

母に元気になってもらいたいと願っていたが、自立を求める私とのすれ違いは深まる一方だった。


***

就職活動。

自尊心が極端に低い私にとっては、「自己PR」をすることは、胸をえぐり取られるような苦しみを覚えるものだった。

なんとか就職するも、想像をはるかに超えるハードな働き方をして、体をボロボロにした。

無理がたたって、全身にアトピーが出た。

電気が走るようなかゆみと、その後の焼けつくような痛み。眠れない日々が続いた。

その後約8年間、働きながらアトピーと向き合う日々を続けることになる。

アトピーは大変辛いものだった。でもアトピーにならなかったら、自分を労ることを知らずに生きていただろうと思う。

からだは、不調を通して自分を救おうとしていた。

それでもアトピーは辛かった。

皮膚はただれ、血がにじみ、お風呂に入れば叫ぶほど痛かった。

日々、全神経がかゆみと痛みに注がれてしまう。

服に皮膚が貼りつき、血で汚れた。

毎日皮膚が少し再生しては、耐え難いかゆみで掻きむしり、血だらけになることの繰り返し。


気が遠くなるほど、長く苦しい年月だった。


***

私は今も働いて、生活をしている。

アトピーは大分落ち着き、
素手で物に触れることができるようになった。
お化粧もできるようになった。

ずっと苦渋の表情を抱えていた母は、希望を持つようになった。にこやかな笑顔を見せてくれるようになった。

私は、子どもの頃からの願いを、

やっと叶えることができたのだ。


***

絶望の中、私を支えたのは、

私が私の苦しみを乗り越えれば、
世界のどこかで同じようなことに苦しむ人の
助けになるんじゃないか

そんな、なんの根拠もない感覚だった。


人は、気づかずとも支え合って生きている。

だから、人が生きて前を向いていることは、きっとどこかのだれかを勇気づけているのだ。

ある、壮絶な虐待から這い上がって自分の未来を切り開いた人が、

“あらゆることは恵みになる”

そんな言葉を、本に載せていた。


闇を知っているからこそ、
人より光に気づくことができる。

そんなこともあるんじゃないかと思う。

意味のないものなんて、きっとこの世にない。

すべてなんらかの理由があって、そこに存在している。


***

人生で出会える人はごくわずかだけれど、

温かい心を交換し合って生きられる人は

幸いだと思う。

たとえ、ほんの一文出会っただけだとしても、

何か小さな希望をあなたの胸に灯すことがあったなら、

そんなに嬉しいことはありません。

生きることの喜びを

多くの人が感じられますように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?