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そこにニューイングランド風【エミリ•ディキンスン#256】

生まれ故郷のことをどれだけ知っているだろうか。故郷に何があるか突き詰めて考えたことがあるだろうか。

東京は家を建てては壊し、人は入っては出てと、あらゆるものが移ろう都会だ。しかし移ろいながらも東京にも町の個性がある。都会ほど変化が少ない地方ならなおさら個性的だ。米国ニューイングランドのアマストに生まれた詩人エミリ•ディキンスンは、豊かな自然のなかでたくさん詩を書いた。次の詩もそのうちの一つだが、例によって「ひねり」は入っている。

The Robin's my Criterion for Tune —
Because I grow — where Robins do —
But, were I Cuckoo born —
I'd swear by him —
The ode familiar — rules the Noon —
The Buttercup's, my Whim for Bloom —
Because, we're Orchard sprung —
But, were I Britain born,
I'd Daisies spurn —
None but the Nut — October fit —
Because, through dropping it,
The Seasons flit — I'm taught —
Without the Snow's Tableau
Winter, were lie — to me —
Because I see — New Englandly —
The Queen, discerns like me —
Provincially —
(#256)

訳してみよう。

こまどりはわたしの詩(うた)の基準
そのさえずりで育ったわたしだから
でもカッコウに生まれたなら
神さまに誓って
頌歌(オード)を絶唱しよう
キンポウゲをひらかせて
花園を満開にするわたしたちだから
でもイギリスに生まれたなら
ひなぎくを蹴散らしてやろう
10月といえばナッツ
実を落としながら飛ぶと
季節はうつろうと教わった
窓のふちに雪がないのに
冬はわたしの足元にくる
ほらそこにニューイングランド風が
女王様もお見通し
地域にあう詩をうたいなさい

(ことばのデザイナー/筆者訳)

エミリはニューイングランドに多い駒鳥の調べを聴いて育った。郭公は英国の鳥で、ワーズワースなどの詩人もよく取り上げている。もしも英国生まれなら郭公のように絶唱したねというのだ。庭園も違う。ニューイングランドの庭園は花で満開、英国の庭園はもっぱら草ぼうぼう。英国国教とプロテスタントという教会の違いもある。ひなぎくはディキンスンのニックネームで、イギリスで生まれていたらわたしは蹴散らされていたというのだろう。エミリは“ニュー”と“オールド”のイングランド比較をしているようだ。

しかしこの詩は単に2つの世界を比較しているだけでない。エミリはアマストのことを書いたが、自分の住む町を書くとはどういうことなのか?

ふと米国作家のウィリアム•フォークナーが創った架空の町「ジェファソン」を思い出した。作家の架空の町には白人も黒人も、暴力をふるう人も引きこもりも、殺した人も普通の人も出てくる。神を呪う人も信じる人も出てくる。フォークナーは故郷をモデルにした。自分の町には人びとが生きる理由も、死ぬ理由も、どちらつかずの理由も、すべてがあった。町にそれらを読み取り、どの町にもあるようにして作品に帰結させた。

エミリもまたアマストの自然や人々や神様を書いた。それにとどまらず、米国各地や英国へ、ヨーロッパへ飛び、様々な地や海を舞台にした。だがどこを舞台にしても、結局はコマドリの目を通した「ニューイングランド風」になってしまうと、自分の詩作を皮肉っているようなのだ。

それでいいのだ。誰もが自分が住んだ土地から離れられない。離れられないのであれば、詩や物語や曲を書きたかったら、自分が住んだ土地にあるものを読み込み、突き詰めればいい。生まれ育った所に「あらゆる世界」があり「あらゆる人間」がいるのだから。それが I see — New Englandlyの意味、作家としての正しい方法論だと思う。

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