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安息日に教会へ通う人もいますが【エミリ•ディキンスン#324】

安息日にどこに行き、何をすべきなのだろうか。アメリカ東部から遠く離れ、宗教色薄い日本人の私が、信仰告白をせず孤独を選んだ女性の心をなぜ知りたいか、改めて考えさせられた。

Some keep the Sabbath going to Church —
I keep it, staying at Home —
With a Bobolink for a Chorister —
And an Orchard, for a Dome —
Some keep the Sabbath in Surplice —
I just wear my Wings —
And instead of tolling the Bell, for Church,
Our little Sexton — sings.
God preaches, a noted Clergyman —
And the sermon is never long,
So instead of getting to Heaven, at last —
I'm going, all along.
(#324)

訳してみよう。

安息日に教会へ通う人もいますが
わたしは家ですごします
コメクイドリの聖歌隊
礼拝堂は果樹園です

安息日に法衣を着る人もいますが
わたしは翼をちょこんと着ます
教会の鐘を鳴らすかわりに
空飛ぶ堂守さんが歌います

神さまの説教は音色豊かな牧師さま
お話は長ったらしくないので
死の時に天国に召されるのではなく
いつも天国に召されているのです
(ことばのデザイナー/筆者拙訳)

詩人エミリ•ディキンスンが暮らした東部アマストは、伝統を重んじる地だ。エミリの時代、カルヴィニスト(プロテスタント)の教えが浸透し、精神修養と魂の感化がその地方を支配していた。多くの人の本音が、「物欲を戒める説教を週一回、一時間してくれればいい」というものであっても、信仰告白をしなければならないという空気が濃かった。

エミリは友人宛の手紙で、「救い主を見つけたと感じた。それは幸福な時だった」と書いたが、朝のお祈りは忘れ、教会に行くことが億劫であった。信仰が当たり前の土地で、それに適応できない苦しみを抱いていた。人々の信心に偽善やうわべを感じとっていたからもあった。

「信仰告白した人たちが何を見つけたのかわかりません。それをみんなが貴いものと思っています。一体、そんなものがありうるでしょうか?」と手紙に書いた。結局彼女は教会に行かなくなった。「私は海と戦いたいのーこの楽しい海でも難破船を数えることはできます。ざわめく風の音が聞こえます。ああ、私は危険が大好き!」

以上『エミリ•ディキンスン評伝』(トーマス•ジョンソン著)のP12〜30をかいつまんだ。

信仰とは原罪と向き合い、確信を求め、救済を見いだすことだと思う。エミリはどこに何を見出したのだろうか。多くの詩でうたったように、エミリは自然のなかに宗教の力を求めた。そこに何があるのかを知りたい。そこにある救いや確信を知りたい。彼女の感じた幸せを、そして天国を知りたい。

なぜ私はそれを知りたいか。エミリは詩作を認められることを拒否して、書き続け、タンスの中に詩作を閉じ込めた。何を信じて書き続けたのだろうか?それを知りたい。私も孤独で書く人だから知りたいのだ。私も幸せや天国を探しているので知りたいのだ……


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