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3人の顔も知らない男と僕と高専の話 1

はじめに

この春から大学に復学をして、仕事と大学の両立という悪魔的な急がしさに追われ始めてから、アタマのエンジンのギアが切り替わったような感覚がある。個人的にはとても良いペースでモノを考えられていて満足しているけれど、自分が何を考えているか他人に伝える難しさとフラストレーションがその分溜まりつつある。

そこで、誰にも語ったことがないちょっと恥ずかしいことや個人的な妄想、妄執もとにかく言語化してオープンにしてみて自分の考えていることのわかりやすさを担保しようという試みでこのノートを書き始めた。

今回は、ちょっと恥ずかしい自分の中の妄想/妄執/脅迫観念を言語化してみようと思う。

これから書く話は、僕が自分の人生を通してリアルに体験して来た経験から、僕が内的に作り出した単なる妄執であり、特にこれといった意味はもちろんない。それだけ断っておいて物好きな方にはお付き合い頂きたい。

3人の男と僕と高専について

僕はこれまでの22年の未熟な人生経験の中で、3人の間接的に関係のある男が自ら命を絶った事を知らされた経験がある。彼らと僕に共通するのは、みんな高専の在校生/卒業生であることだ。

3人共顔を知らないくらいだから、別に親しかったという訳でもなく、彼らを失ったことに涙したり悲しんだり傷ついたりしたことは特にない。

ただ、僕が高専で15歳から急激にパーソナリティを形成する中で、その3人の存在は僕の深いところに入り込んでいて、仕事に疲れて寝ていたい時、大学で友人と飲みに行くとき、一人で散歩をしている時、そういったふとした時に、彼らの事が頭に浮かぶ事がある。

彼らは、ちょっとした好奇心から高専というものに関わってしまった僕の人生の、有り得た結論の一つであり、僕は彼らの有り得た別のルートを生きているのだ。

1人目の男

1人目の男が命を絶った事を知らされたのは、小学5年生くらいの頃だったと思う。母が僕に語ってくれた。

母が話すところによると、なんでも僕の大叔父は山口県宇部高専の第1期生を優秀な成績で卒業し、とある大企業に就職をした後に仕事で精神を病み、僕が生まれる前に命を絶ったらしい。

僕の曾祖母は100歳まで生きた我慢強い気丈な人だった。彼女は、戦争で夫をなくしたあとに女手ひとつで僕の大叔父と祖母を含む3人の兄妹を育て、長男であった僕の大叔父を当時設立されたばかりのピカピカの高専(いまでは定員割れも散見される高専だが、貧しくて人口の多い当時の日本では、高専の倍率は数十倍であった)に入学させ、卒業した長男を誇りに思っていたらしい。失ったときの悲しみはいかがなものだっただろうか。

当時の高専には大学進学の制度はなく、僕の大叔父は大人になってからも僕の曾祖母(大叔父の母)に対して大学に行かせてくれなかった事に対する不満を言っていたらしい。

そんな事を言われても当時の日本で女手ひとつで3人兄妹を育てたのだから高専にいれるだでけもちょっと頑張り過ぎである。僕の大叔父は母親には甘える人だったのだろう。

僕が進学実績のない高専から母校で初めて東大に挑戦したのは、この話があったからだ、と結びつけるのは安直すぎる。一方で、純粋な勉強や読書への好奇心や愛着だけで勉強をしていてナチュラルに受かった、というのも出来すぎた話である。

実際は、純粋な好奇心とフツフツとした負の感情を両方発散するように受験勉強に熱中していたように記憶している。

10代の後半にそんな事を考えながら人格を意識的に形成したものなので、彼のことを今でもなんとなく意識してしまう。

当時の大学編入制度のない高専や、高専をブルーカラーの大量生産工場のように立てた想像力の無い偉そうな誰かに対する怒りももちろん感じている。

一方で、倍率の高い初代の高専で優秀な成績を収めるくらいには学ぶことが好きなのであれば、クダラナイ学歴なんかに囚われずにもっと自由に勉強をしてほしかったとも思う。

僕は彼に肩入れする気もまったくないし、当時の高専の制度も高度成長期の日本では必要なものであったに違いないとも思っている。

それで彼に対する話は終わりなので、この経験を元に具体的に何かをしたい、という話は全く無い。

ただ彼の存在は僕の中で残り続けていて、ふとした時に頭に浮かぶ事がある。それだけの話だ。

ところで、
当時高専はどういった謳い文句で高専生を集めたのだろうか。

1人目の男は、高専に何を求めて入学したのだろうか。

彼が体験した高専教育はどのようなものだったのだろうか。

彼が経験した「高専卒」とはどんな体験だったのだろうか。



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