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『関西弁でよむ遠野物語』その4|話題は民俗学からコロナ、シン・ゴジラへ

ーー編集者をされてましたが、どうして、民俗学をやろうと思われたのですか?
 
民俗学者を名乗り出したのは『蚕』(晶文社)の頃からで、その前は著述家とか編集者って書いてあるね。
大きな契機になったのは東日本大震災。僕は東京で体験したんやけど、あれだけ多くの方が巻き込まれた災害、多くの亡くなった魂を、どう鎮魂して供養してきたのか、それから先、どういう風にして共同体を復興させてきたのか。あるいは、亡くなった方、見送った方、家族のこととか、これから死者とどう付き合っていかなきゃいけないか、死の問題とか共同体の問題とかって考えてて。これ、民俗学の領域やないんかなって思った。
民俗学者って、災害をどういう風にして考えてたのかを勉強し直して、誰かふさわしい人に書いてもらおうって思ってたんやけど、そのタイミングで時間かけずに書いてくれる人が見当たらなくて。ほな、自分で勉強して自分で書いたら、一番早いなと。(笑)だから、自分の勉強のために書いたのが『柳田国男と今和次郎』(平凡社新書)なんです。なぜ、民俗学かっていうのは、東日本大震災がきっかけで。死の問題、魂の問題っていうのが一番、問われるべきやし、それは、ずっと、テーマになっているしね。
それとね、柳田国男って国連の委員やってるんです。第一次大戦で日本は戦勝国だから、植民地をどうしなきゃいけないかって問題を他の国と一緒に考える。それで、新渡戸稲造に請われて議論する役割に任命される。当時一番大きかったのはパレスチナ問題で、柳田国男がフランスとかイギリス代表と一緒にパレスチナ問題について議論してた。
そういうことで、ヨーロッパにいる時に関東大震災の報を聞いて、東京の悲惨な状態の話が伝わってくる。ロンドンのパーティにいた時に、その中のひとりが「浮かれてるからバチが当たったんだ」って、天罰だってことを言うわけ。それを聞いた柳田は、「なんで、本所深川に住んでるような、資本主義の繁栄の恩恵に全く浴さない人々が、なんで罰を受けなきゃいけないんだ」っていうことを言った。本所深川に住んでる最も貧しい、恩恵に浴さない人々っていう、柳田の言葉。柳田がやろうとしてきたっていうのは、貧しい民衆、普通の人々が、なんで、これまで苦労してきたかっていうことをやりたい。
それで、日本に帰ったら自分の本来やるべき仕事を全うしようと思った。そこではじめて、柳田は民俗学を始める。大正12年。そんなことを本でも読んだりして、興味を持ったという経緯がある。
 
ーー『死者の民主主義』を読んだ時に、タイムスリップして昔の出来事を見てるわけではなくて、今いるところから過去が見えるという感じがして、そこが面白いなと。
 
心情とか感情っていうものは、近世とか近代、現代ってなったって進歩とか別にない。だから、『死者の民主主義』にも書いてるけど、AIとか、人間と人間じゃないものとのつきあい方、妖怪と人間とかっていうのと、多分、おんなじようなもので、そういうものは多分、変わらないと思う。
 
ーー進歩……しないんですね。
 
進歩しない。進歩しないというところが面白いっちゃあ、面白いし。(笑)
 
ーー進歩しないのか……。だから、今でもデマには惑わされるし、アマビエさんも有難がるし(笑)
 
でもね、昔の人は、今のコロナみたいな、体験したことがない災害とか出来事があった時に、これは、河童とか天狗じゃないものが起こしたんじゃないか。新しい妖怪とか、新しいなにかじゃないか、みたいに考えて、形を与えてきたというか。今回の新型コロナも、今、僕らが置かれてる状況って、これまでに全くないようなものなんやけど、なんか、過去のものの焼き直しみたいなのばっかしで、東日本大震災以降、ちゃんとした、別の形に置き換えて遺せるものが、なんにも出てきてない気がしてしょうがないんですよね。
東日本大震災のあと、三陸沿岸で幽霊の目撃譚っていうのがいっぱいあって。幽霊って、日常で生きててもしばらく音信不通だった人、あるいは、親しい人が、例えば交通事故で死んでた。ちょっと時間経ってから実はあの人死んでたんだって聞いた時に、夜中に枕もとに立つ。これはね、事実として本当にその人を見たとか会うことって普通に起こってくる。都市部の非常時じゃない時にだって。
東日本大震災の時は、そういう体験した人がいっぱいいて。あれだけ幽霊譚がいっぱいあるっていうのは、ある意味当たり前のことで。幽霊はね、必ず出るんですよ、当たり前に。それを昔の人は、そういう風な体験を個人個人で持ってるだけでは、いつまでも悲しい。これを妖怪とか怪異譚っていう別の物語にして、乗り越えていったんじゃないかっていうのが、僕の仮説なんです。
 
東日本大震災以降に商業的なものだけど、妖怪的なものがあるとしたら、シン・ゴジラってあるやない。ゴジラ自体が核兵器によって変異した怪物だけど、太平洋戦争の南の島で亡くなった英霊を別の形にしたみたいなこととか、あるいは、国内で死亡した人の魂だとか、いろんな人がそういう解釈をしてる。
シン・ゴジラは、あきらかに東日本大震災っていうものをモチーフにして、すごいヒットしたんやけど、アマビエと一緒で焼き直しとちゃいますか。ゴジラを新しくしたっていう意味では。なんか昔の人に比べて、そういうところの想像力が欠如してるし、別の物語に置き換えたりして乗り越えていくみたいな力が、衰弱してるような気がしてならないんですよね。
だから、なんだろう。東日本大震災における原発災害と今回の新型コロナもそうなんだけど、結局、犠牲者とか曖昧にしたりして、あんまり大ごとにしないように、まぁまぁっていう空気の中では、別の形に置き換えて要求するとか。資本主義社会の中で分捕り合戦とかしてないで、文化の中で、今だったら例えば、野外劇なんかで創作劇やったりね。僕の浅知恵でいえば、ソーシャル・ディスタンスをテーマにして、すごい遠くから観る。距離とかそういう制限を使って、みたいなことも面白いし、抗議になるし。この災害を表現としてやるっていうふうなことも出てこない。文化の政策もそうやし、民間の活力もそう。文化的衰弱が問われてないと思うんですよね。

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