ぽいぽくない 2024/08/01(3-p.115)#79
クトゥルー神話は戻る。きょうからH・P・ラヴクラフト(南條竹則編訳)『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選』を読んでいく。新潮文庫の100冊。やっと今年の分をはじめられる。ひと月遅れのスタートである。
熱に浮かされて本も読めずにいた先週、録画しておいた『三つ首塔』を観る。古谷一行主演。1993年放送。よくわからないのだが、古谷一行主演の金田一は、同じタイトルでも複数回制作されているものがあり、この『三つ首塔』は二度目のほうである。1977年放送の一度目は四回に分かれた連ドラ形式だったようだが、今回僕の観たほうは単発の二時間ドラマだった。
小説を読んだばかりで、あの乱痴気騒ぎがどう映像化されているか、愉しみにしていたのだが、見はじめて数分でこれは全然別物であると気づく。何だこれ、原作をここまで改変していいのか笑。名前がおなじであることと、幾つかの設定が踏襲されているだけで、あとは全く異なる世界が繰り広げられていく。座光寺音禰て誰だよ笑。Wikipediaによると、連ドラの一作目はわりと原作に忠実であったらしく、二度目だから変えてみたのかな、一作目をむしろ観たいぞ。
原作からは遠くかけ離れているものの、観ていくとこれはこれで面白くもあり、全く知らない話であるから先が読めず、気づけば愉しく観られている。あら不思議。何だかこっちのほうが金田一ぽいなあ、なんてことも思ったりする。
それで、ぽいとかぽくないとかって何なんだろう、と考える。『三つ首塔』の原作は、良くも悪くも金田一ぽくなさが魅力のひとつであったと僕はおもう。著者も金田一のイメージを裏切ろうとして書いている節があった。ところがドラマのほうはふつうの金田一ぽく作られていて、だから愉しく観られるのだけれど、これならもっと出来のいい話が別にあるわけで、何だかいつも通りで物足りなくもあるなあ、なんてことをおもってしまうのである。原作のあの自棄糞なかんじが僕は好きだったわけで、何でもそれっぽくすればいいってものでもないのだな、とそんな考えが熱に浮かされてボーッとした頭に浮かんでは消えた。