悪夢を空の瓶にする

 ちょうど2年前の今日に公開したthe HIATUSについての文に手を加えたもの。ハイエイタスは音楽的な前衛性や演奏力の高さがよく言われるけれども、わたしは歌詞にでてくるあの人のことがずっと気になっていて、かれの背中がどうしていつもあんなに傷ついて立っているのかを知りたいと思った。その傷にどうしてここまで惹かれてしまうのかを書きたいと思ったのだった。

***

 かれの資質は自己否定に多くを負ってしまっている。Insomniaはその最たるものに思われる。音も声も歌詞もはげしく悲劇的だ。けれども、それは悲劇「的」であって悲劇ではないのでは、というのも、歌詞にはいちおう「君」という二人称がいるけれども、それは他者になっていないからだ。歌詞をきいていても、実体性の感じられない、仮構された「君」しかみえない。
 たぶん「君」は、「僕らが最も幸せだった時」の象徴であり、失われたものの代表であり、したがって、それらを失った自分を責める意識をよびおこすものだ。かれは「君」を懐かしんでいるわけではない。「僕は君が求めてる人じゃない」「僕は君が知ってる人じゃない」というふうに、「わたしは~である」という直截の自己定位ができないで、「君」を自分のはるか対極におき、その視点から自分をはげしく否定することで、かろうじて逆説的に自分をたしかめているのだ。「君」はそのための媒介の役割しかもっていない。
 自己は他者との相対化によって織りなされていくということは、よく知られた考えだとおもうが、それには真に「他」なるものが必要だ。自己にとって、不明の、未知のもの。自己の及ばないところからやってくるもの。そういう他者はここにいない。いわば、自己否定という相対化の結果をあらかじめ設定して、その目的のためにつくられた、はりぼての他者しかいない。
 いってみれば「君」とは、「僕」が思い込みからつくってしまった影だ。「君」から「僕」へのはたらきかけはこの曲のなかでまったく語られないので、「君」がほんとは「僕」のことをどう思っているかはわからないし、それさえかれにとってはどうでもいいことなのかもしれない。「君が大丈夫だといいな」は真摯な祈りの言葉だけれど同時に、自分を「君」から切り離す言葉でもあるだろう。僕のいないところでどうか幸せであってください、と。

もうしばらくだけここにいて
ちゃんとするから
戻ってきて
ちゃんとするから

 ラストの部分は、子どもの必死の駄々のような幼い口調で対訳されている。こういう、無意識の部分というか、ふだんはすっかり忘れられている部分に訴えかける言葉選びにかけては、細美は抜きん出ているのだが、歌詞の中のかれは、「ちゃんとする」とはどういうことなのかも語らない。ここにいてほしい、戻ってきてほしい欲求はあっても、「僕は誰で/何がどうなっていたのか」なにもわからない中ではむなしく霧散してしまう。極端にいえばかれは、自分を「君をなくした最低なやつ」としか認識できない。その限界線まで落ち込みながら踏みとどまっている歌だ。

 けれどもそれも、かれには切実に必要とされたのだろう。「助けて」「眠れないよ」という叫びは、自分の内側に反響し、かえって自分を傷つけてゆく。その痛みによってしか、かれは自分を保てない。だからかれは眠らず痛み続けなければならない。眠ることはすなわち、かがやかしい過去の幻影に埋没することであり、それは無限の後退のはじまりだからだ。「起きてないと/思い出の中でばらばらにばってしまう」。それよりも、かれはせめて、幸せなはずのものを「悪夢」と感じる場所にであっても、留まることを選んだ。痛みのうちに醒めていることで自らを保とうとする、綱渡りのような自意識だ。

 まえ、エルレガーデンについて、欠如への感度が鋭すぎると書いたことがあるが、同種の意識がここにもあるとおもう。なにかをなくしたとき、その欠如をうめようとする欲求が強さのあまりに空回って、即座に自己否定につながってしまう。それが深化していって、ついには自己否定によって欠落をうめる(自分の位置を確かにする)という逆転が起きてしまった。生きづらい感受性だとおもう。「足りなさ」を感じすぎるのだ。
 かれには、「君」という、大切な他者がもともとはあった。それをなくしたところから歌は始まっている。他者の不在に対するはげしい怒りが、すべて自分に向いてしまっている。かれの自己否定がそれを装った感傷にながれたりせず徹底しているのは、そういう、「君」をあまりに大切におもうがゆえの成り立ちによるのだろう。

***

 Something Ever Afterにも「君」はいる。「僕」を「夕陽みたいだって言ってくれた」ひとだ。ここからすでにInsomniaの「君」とは全然ちがっている。「君」から「僕」への方向性がはっきりわかる点もそうだし、「夕陽」という外界の風景が二人の関係のなかに入り込んでくる点も重要である。二人だけの世界だったり、想念の中の世界ではなくて、もっと大きく開かれた世界の中の「僕」と「君」であり、ちゃんと体温のある、実体的な存在におもわれる。
 Did you see…という「君」への語りかけは、「何が永遠に続くんだ」という最終行に収斂していく。これは、やはり最終的には自己完結していくように見えるが、この反復される「see」がじつはとても大事な動詞なのだ。

 千葉一幹氏は、『現代文学は「震災の傷」を癒やせるか:3・11の衝撃とメランコリー』という著書の中で、「共視」という通じあいの形を提示している。ひとはどれだけ一緒にいても完全にわかり合うことはできない。だから、見つめ合う代わりに、同じものを見る。もういない相手が見ていたものを、今いる自分が見ることはできる。それが愛することだと。だが、同じものを見るためには、相手自身からは目をそらさなければならない。この「別れ」のしぐさが、愛することにはすでに含まれているのだと。
 「僕」は、なにもかも永遠には続かないという諦観を前提としつつ、「見たかい」「見たよね」「聴いたかい」「覚えているかな」と、一緒に見たはずの景色をひとつずつなぞってゆく。こうして「君」の不在はより確かなものになってゆくが、しかしその不在から湧き出すさみしさ、無力感が、この曲では自己否定よりもむしろ、いないもの・言葉のとどかないものを見つめようとする力に昇華しているようにおもわれるのだ。
 欠如をけんめいに埋めようとするおこないがかれを自己否定へ追い込んでしまったのなら、欠如を欠如として受け入れたことが、かれをそこから解放したのかもしれない。Something Ever Afterの「君」が、「君が大丈夫だといいな」といえる場所にはおそらくいないことが皮肉ではあるが、だからこそ、「もしまた会えたら」という、不可能かもしれない想いを、こうものびやかにうたうことができるのだろう。ここには固執がない。痛ましく開かれていた瞼を、おろしたいときにおろすことができる。この差は、「君が大丈夫だといいな」と「もう一度だけ君に伝えたかった」とのちがいにおいて明白である。

 「君」との間に、ほんとうは存在しない断絶をたえず生みつづけた「僕」の自意識が、それを乗り越えて、「伝えたかった」という未完の望みの形で「君」を自己のなかにおいておくやりかたをつかんだ。望みは未完であることによって半永久的にかれの中に保たれる。いなくなった「君」を塑像することなく、「空っぽの瓶」という空白、つまりいつか満たされるべき可能性のままで。そしてかれ自身も、その持ち主としての自分、「もっと伝えたいことがあったよ」といえる自分を、永遠などない世界の中で、確かめることができるのだろう。

***

 InsomniaとSomething Ever Afterの二曲についてしか書けなかったけれど、ハイエイタスの曲はいつでもわたしを傷つけずにおかない。不快にさせるということじゃない。ひとつ下の層までもぐりこんできて、わたしを揺さぶり、立ちすくませる。それは得がたい事実だ。傷を見つめ続けている人につけられた傷は大切にしたい。
 千葉氏の著書はわかりやすくてとてもいい本です。気になったらぜひ。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います