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生活、そこに立っている音楽

 バンプのstrawberryのMVをみて「お」と思った部分があったので、そのことを書いておく。自己の複数性について、またバンプの歌に出てくる「街」について、うっすらと考え続けていて、その関心をとおして映像をみた解釈と感想なのだが、だったと思うのだが、読み返したらあまり関係ないことばかりだった。なお、わたしは映像表現についてかいもく無知で読解にもほとほと自信がないので、見当違いを言っていたら教えていただきたい。
 メンバー四人がそれぞれべつの部屋で一人で楽器を弾いていて、それが一個の家の中で、さらにそれぞれが演奏している映像が、その家の外壁をはじめ街の風景に投影されていく、というつくりの映像である。


 部屋と家

 映像の中の四人はばらばらの部屋にいるが、それらの音はまとまってひとつの曲を構成している。このことは、独立したいくつかの部屋が集まって一個の家を構成することと重なる。別の音を出す別の個体が、部屋というそれぞれの立場なり領分なり、つまり役割を守りつつ、かつ扉をとおしてたがいに通交できる状態を保ちながら、それぞれが不可欠の要素になってひとつの有機体をつくっている。アンサンブル形式の曲というありかただけでなく、複数の演奏者からなる一つのバンドというありかたそのものとも通じる表現だと思う。
 加えて、これは「生活」それじたいの喩でもあるかもしれない。四人のいる家は(もちろん撮影用のスタジオだろうが)みたところコンサートホールとかではない普通の住宅である。曲に入っている椅子の軋む音なども合わせて考えると、日常的な生活の場である「家」が主な舞台に選ばれたのも納得される。
 生活とは、おどろくほど無数の煩雑な日課、つながりがあったりなかったり矛盾・対立したりするいくつもの行為行動が編み合わされ、他者との関係をつないだりほどいたりするなかで、各人に独自な形をなしていくものだ。誰かと一緒に暮らしている人は、その身近な他者と互いに独立しつつ協働してつくる生活を思い浮かべるかもしれない。「家」はそのように、あやうく、しかし当人たちの努力のもとに、やむことなく編まれ続ける生活そのものを、象徴してもいる。

ぼろぼろでも動ける漫画の人
ある程度そんな風に生きてこられた
削れたところには手を当てるだけで
あとはもう気にしないことにした

心は黙って息をしていた
死んだふりしながら全部拾ってきた
変わらず訪れる朝に飛び込んだら
あなたにぶつかった漫画の外

「家」は、物質としては無機物だが、ほかの建造物とちがって、その中に寝食などひとの生活の根幹をかかえもち、住む人ごとにちがう体温や体臭をにじませるやわらかで流動的なものだ。「家」を起点あるいは結節点としておのおのの生活は繰り広げられていく。家の白い外壁に演奏の映像が投映されるのは、その「家」の、ひいては生活の、見かけよりずっと複雑で深い奥行きを、いっとき陽炎のようにほの見せたものかもしれない。

 しかしながら、映像を見るかぎり、どの部屋も家具の類がほとんどなく生活感に乏しい。住んでいた人が出ていってしまったあとのようにも見えるし、少なくとも安心できる空間ではなさそうである。
 平凡で地味でも本人にとってしばしばたたかいである日常生活そのものを、どうにか実態に近いかたちで見詰めようとし寄り添おうとするまなざしがバンプにはあるが、その願いは、ずっとそばにいることはできないという物理的制約に阻まれている。ボーカル藤原がよくライブのMCでいう、リスナーひとりひとりの日常を知りえない寂しさは、歌詞にも表れているとおりである。

ねえ どんな昨日からやって来たの
明日はどんな顔で目を覚ますの
あまりにあなたを知らないから
側にいる今 時が止まってほしい

 あなたがいまここにいるからこそ、いまここ以外のあなたを知らない事実も重い。具体的な生活者を示さない部屋のがらんとした様子には、その遮断される感覚というか、近づけなさがやどっているようにも思う。同時に、そこにさす光や色合いのなかにとどまり、粛々と音を出す四人のたたずまいからは、その近づけなさから静かに何かを紡ぎ出そうとする態度を感じもする。これは深読みしすぎだろうか。


街のなかの幻

 さて、生活はむろん誰にとっても家の中で完結するものではなく、いやでも外側へつながれ、開かれる。家の外壁に投じられたものがやがて橋桁や水たまりや学校や、なにか公共施設っぽい建物や、といった街なかにも反映していくのは、だからとうぜんの流れといえる。けれども外に出ていくのが、演奏者自身でなくあくまでその幻であることに注目したい。街という外部への広がりが設定されることで、家の中の光景はしぜんこれに対置され、よって、外部へそのまま取り出せない内面の景色として現れなおしている。

 さっき近づけなさと書いたが、その感覚は藤原でなくても日常的にもちうるものだ。他者の考えていることを本当にわかりはしないし、自分のすべてを他者に過不足なくわかってもらうこともできない。どれほど共感しても同じ気持ちではない。家の中と外は別の場所である。たとえばそれは、プライベートの自分と職場や学校での自分がちがうという話でもいいし、心の中で思っていることと、それを誰かへ伝えるための言葉とが、どうしてもずれてしまうことでもいい。あるいは、本当に思っていることを言おうとしなかったり、言おうとしてもできなかったり、そもそも自分が本当はなにを感じているのかを自覚できなかったりすること、そういう、自分にとっての自分のわからなさの経験でもいい。どれもありふれたことだ。

 そんな不透明を底にもちながらすごすわけだが、ときどき、その底部がふいに具体的な形をとって外側に現れることがある。未知のはずなのに見覚えのある何かと、衝突するように出会って、それを通して、「自分はこう思っていたのか」「自分はこんなだったのか」と気づくようなことがある。もしくは、「こういう人だと思ってたけど、本人はそんなふうに感じてたんだ」だったり、ほとんど知らない人の言葉のはしが忘れられなかったり。今までなんとなく通り過ぎていた本の一文や歌の一節がとつぜん輝いたり。そこまではっきりした感触でなくとも、すれ違っただけのものに思わず立ち止まってしまうとか、わからなかったことが急に腑に落ちることがある。これもありふれたことである。

 心の中をそのまま他者にのぞかせることはできないし、自分でもその確たる像を見ることはないかもしれない。けれどもそれはないのと同じではない。知っている。よく見えなくても、言えなくても知っている。知っている自分が、他者にあふれた街を歩くなかで、ふと、その写像のようなものに出くわす。それは光や色や匂いや音かもしれないし、他の誰かの声やしぐさや表情かもしれない。他者には決して見せられない自分だけの部屋のなかでのできごとが、映し出された幻影のように外側に現れる。言い換えれば、わたしたちは、外にあるものをそのように感受することがある。なんであっても本来はただそこにあるだけで、なんの意味ももたないのだが、それをわたしたちは自分の心を見るように見ることで、自分とは関わりないように見えたものたちと、一挙に、あるいは少しずつ親しむことが、あるのだ。

 そして、その幻に一緒に立ちあった他者がいるなら、その他者ともまた、新しく出会うことができるだろう。

心のどこだろう 窓もない部屋
その中でひとり膝を抱えていた同士
どういうわけだろう よりにもよって
そことそこで繋がってしまった

分かり合いたいだとか 痛みを分かち合いたいだとか
大それた願い事が叶ってほしいわけじゃない
ただ沈黙の間を吹き抜けた風に
また一緒に気付けたらなって

 自分の部屋に他者を招き入れることができないなら、同じ景色を一緒に見ることがひとつの「繋がり」になりうる。むろん同じものを見ていても同じように見えているとは限らないが、たとえば同じ風に気づいて一緒に目をあげるとき、それは、そのとき考えたことや話したこと聞いたこと、話せなかったこと、聞けなかったことに、涼しさや匂いや光が合わさった、立体的な記憶になる。その記憶は積み重なって、わかりあえないことも包みこんだ他者との関係を、星座のように街の中へ作りだしていくだろう。


立っているもの

 曲の大サビにあたる部分の映像では、楽器を持っていない藤原が、両手をぶら下げて立ち、こちらを真正面に向いて歌っている。窓は明るい昼の光に見える。カメラは藤原にゆっくり近づき、歌が終わるとゆっくり遠ざかり、最後は藤原がこちらへ軽く手をふっておわる。この手のふりかたは、「いってらっしゃい」「またね」のような軽い別れの挨拶のようでもあるし、反対に、待っていた人を迎える身ぶりにも見える。

 この曲でなくても、ある曲が自分にしっくりくるときは、ああやって自分の部屋のなかで、つまり自分にしか見せない心の中で、でも自分でないなにかが立っていて、自分のほうを向いて、「あなた」と歌ってくれている、内側から歌いかけられていると、感じることがあるかもしれない。はじめて聴く音楽に、自分の知っている感触をおぼえることがあるように、知らなかった光景、知らなかった感覚にはじめてふれたときにも、なじんだ音楽がさきにその場所へいたように感じられることがある。もっといえば、その瞬間に実際に鳴っていなくても、音楽はそこにいることがある。ある音楽を知っている、すでに出会っている状態でそこに立つことで生まれる感覚や感情があるなら、それだけでも音楽の体験といえる。
 音楽は、前節で書いたように自身が心の写像になりえると同時に、もっとほかの、たくさんの写像にむけて、つまり他者との新しい「出くわし」に向けて、聴き手を導く力ももっている。音楽じたいをわたしは好きだし、それじたいについて考えることも好きだが、音楽を聴くことと各個の生活との結びつきがもたらすこのような経験も、音楽の栄光ある一面だと思っている。

 録音され複製され、何度でも繰り返し再生することができるようになっても、音声でできている以上、音楽は原理的に一回きりのものだ。どんな自分がどんな状況で聴くのかによって異なる響きをもつ。その意味では、音楽は自分であり、同時に自分とは少し違う存在でもある。だから内側から「離れたくない」といい、「受け止めさせて」といい、「ひとりにしないで」という。どこかへ向かおうとする背を押しもするし、たどり着いた場所で腕を広げて迎えてくれもする。家から出られないときもその内側でなまなましく鳴る。過去の自分が見ていた景色を目の前に甦らせることもあるし、自分の中の自分にさえわからない何かを、ひっそりと受肉するようにして、何気ない景色のなかにいつの間にか立っていたりもするだろう。
 バンプのことを考えながら書いているので、これは音楽というよりバンプの音楽に限った話なのかもしれない。少なくともわたしにとって、そういうふうに音楽は生活とともにある。終わるたびに別れ、始まるたびに再会し、そのたびにずっといたように立っている。そのことで聴き手を、街にも人にも自分自身にも、何度でも出会い直させる。

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nyo
本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います