米津玄師のふらふら

 どのジャンルでもときどき、神が付けたのか?というくらい、人物をすべて背負っているような名前の人に出くわすが(細美武士とか、羽生結弦とか)、米津玄師もそのひとりだと思う。といいつつこれは名前の話ではないのですが。

「死神」のMVを見た。同題の落語の演目にひっかけたものというかカバーしたもので、米津氏本人が噺家のかっこうで高座にあがってあろうことか「幻師」を名乗っており、それでまったく名前負けしないのでとても痛快におもった。

 歌詞も半音の多い曲調も落語の「死神」のそらとぼけた恐ろしさを彷彿とさせておもしろく、映像は死神米津がたくさん出てきたり、スタイリッシュなカット割など、多方面の感覚に訴えてくるやつで、楽しくて何回も見た。なかでも米津氏の大きな口や手や不吉にゆがめた背中などがたいへんいい仕事をしていた。つくづく不穏で影ある場面が似合うひとだなあと思う。

 わたしは彼の熱心な聴き手ではないが、MVが出れば毎回なんとなく見てみるという受け取り方をしてきたために、米津玄師の音楽は映像と組になって記憶していることが多い。だから彼の佇まいの印象も深い。

 米津玄師の立ち姿は何か凄絶な感じがする。獣めいた雰囲気がある。厚くないが丈の高い体に、おもりをぶらさげるような大きな手足や猫背で、バランスをとりながら立っているような。虎の背中の曲線とか、鹿の脚の均衡とか、ああいう色気を思い出す。あらあらしい力があるが粗雑ではなく、誰にもコントロールできまいと思わせるような、原形の炎とでもいいたいものを感じる。踊るMVが多いのもよくわかる。リズムに乗ってゆるく動いているだけでもとても絵になる。

 なかでも好きなのが「Flamingo」のMVで、あのぬるい悪夢じみた薄暗さが好みだからだが、その世界観にも米津氏の身体がよく作用していたと思うのだ。

 サビのところは比較的「あ、ダンスだな」とわかるが、それ以外では、痙攣なのか踊りなのか何のしぐさなのかという、意志的な境界がはっきりしない動きをしている。悪夢じみたといったのはそのへん。最後の頭を押さえて歩くシーンも、幻覚や夢を示唆すると同時にそれと現実との境をぼかしてもいるようだ。白昼夢や明晰夢のようというか。
 
 とくにスゴ!と思ったのが片足を引きずる歩行。片足立ちのフラミンゴを明確に想起させるが、あちらの無駄なく無理なくすっきりと釣り合った立ち姿に比べて、こちらは病み疲れたような澱んだ動きをしている。「鮮やかなフラミンゴ」に擬された「あなた」への恋情に取り憑かれながら「猿芝居」の泥沼に溺れる歌の主体のありかたと重なるところがあるだろう。
 この曲の発想がどこからきたのかしらないが、「フラミンゴ」から「ふらふら」を引き出したのはありそうでなかったな。フラミンゴにはふらついているイメージがない(片足でもふらつかなくてすごいというほうが強い)のを逆手にとり、鮮やかで美しくもう帰らない「あなた」の身軽な「ふらふら」、それに取り憑かれて彷徨う自分の病的な「ふらふら」という両義性が、曲の世界観を端的にあらわしていて面白い。映像での米津氏の「ふらふら」はそこを体現していたと思う。大柄かつ不安定そうなあの体の雰囲気だからできたことだろう。

 そういや「死神」の黒スーツ(真打の死神)も足をよたよた引きずって寄席にやってくる。首や肩をぴっぴっとひきつらせるようにしながら目線は高座からそらさず、首をのばして命の火をあっさり吹き消してしまう。米津氏にとっての悪夢や「死神」は、ああいう、不揃いで弱そうだが迷いのない足音をしたものなんだろうか。

「不揃い」で思い出したが、米津氏の日本語詞のリズムを論じたすごくおもしろい評論がある。多出する「5文字(5音)」に着目し、その日本語詞としての自然さ・心地よさを熟知し活用した彼の手腕を評するもので、「Flamingo」も例に挙げられている。しかしここで注目したいのは、5音から逸脱する6音や3音の効果についての部分。「Lemon」を例に出してこう書かれている。

俳句や短歌でいう「字余り」や「字足らず」が歌人における洒落やウィットのひとつとして連綿と受け継がれてきたように、5文字・5音のなかにそっと置かれた、それ以外のリズムや響きを持つ言葉に、感情や想いの重心が感じられる。

 一定の枠があるからこそ、そこからはみ出したものは強い印象を残す。
「Flamingo」の「氷雨に打たれて鼻垂らし」で始まるCメロの八・五の繰り返しは七五調を基礎としており、これも耳に馴染みやすい音数であって破調は見受けられないが、にも関わらずやたら耳に残る理由のひとつには、「こぶし」のききようがあるだろう。演歌とかのあれだ。他の箇所と比べると過剰なくらいきいている。ねじる、ためる、はねる、よじる、しゃくる、ふるわせる。音や拍をメロディラインから少しだけずらし単調を避け、肉感あるおうとつを歌にもたせる。音数はずれないが声が「ふらつく」のだ。これも「逸脱」のひとつのやりかたではないだろうか。いわゆる「和」の要素もりもりの曲だから演歌的な歌い方との親和性はそもそも高いのだが、ほかが抑制されてるのを考えればはみ出しているのはまちがいない。足ひきずり歩きもふつうの歩行からのズレや違和と考えると「逸脱」に類するのかも。

 枠とそこからの逸脱はべつに米津氏の専売特許ではないが、彼がそれの名手であるのは疑いないことと思う。MVのコメント欄で見たのだが「Flamingo」はサビ以外全部「イ」音で脚韻を踏んでいるらしい。それでサビをより際立たせているのか。すごすぎる… リズミカルに歩くのもふらふらするのもうまいんだな〜。



 

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