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上田の記憶、上田の魅力

この文章は、「おいでよ上田」さん主催『#上田アドベント2020 』に参加しています。

現在私は群馬県の山村で暮らしているが、生まれてから高校までの18年間は、長野県の上田市で過ごした。上田は私の故郷である。

今回、上田について述べる機会を得たので、昔の記憶をたどりながら、私なりの上田の魅力を探ってみた。ベタ打ち文で伝わりにくいと思うが、ご容赦願いたい。(冒頭の写真は、上田市殿城の「稲倉の棚田」辺りから眺めた上田市街と北アルプス)

鉄道と道路の変遷

私が上田で過ごした18年間は、昭和40年代から50年代。今から30数年前の話なので、この間の市の変貌は著しい。そこで、私が物心ついてから今に至るまでの変化を振り返ってみた。まずは鉄道や道路の変遷から。

私が生まれ育った自宅は、上田市の神科(かみしな)と呼ばれる市街地から東北に位置するエリアにあった。ここは市街地より少し高台にある平地で、今は住宅が建ち並んで開発が進んでいるが、当時は広大な田んぼが広がっていた。昭和40年代には、その田園地帯を大正時代に作られたレトロな電車(別所線の丸窓電車と同じタイプ)が、トコトコ走っていた。上田交通(現在は上田電鉄)真田傍陽線である。残念ながら私は幼少だったので記憶があいまいだが、何度か祖母に連れられて乗車している。自宅の最寄りは「樋之沢(ひのさわ)」という駅で、よく電車の行き違いをしていた。

この真田傍陽線は上田駅と真田・傍陽方面を結んでいたが、自動車の普及で1972年に廃線となった。廃線時の花電車の写真が自宅のアルバムに収められているので、私も見に行ったのだろう。

同じ頃、東御市の滋野から真田町を結ぶ菅平有料道路(今は県道真田東部線)が開通した。この道路は上田市の北東の山岳地帯を通過していたので、私の自宅からも山腹の白いガードレールがよく見えた。この道路の開通により、東京や軽井沢方面から菅平高原へのアクセスが向上した。私も、当時通園していた幼稚園の遠足でこの道路をバスで通り、小諸の懐古園に行った思い出がある。料金所があるにはあったが、一般道路や農道とあちこちでつながっていたので、料金所だけスルーする車も多かった。

1974年には、千曲川に架かる古舟橋が開通した。現在、上田市内には千曲川を渡る橋が計4本架かっているが、古舟橋が架かるまでは、上田橋の1本のみだった。当然、朝夕の上田橋の渋滞は激しく、上田電鉄別所線に乗客が流れて廃線をまぬがれたという話を、どこかで聞いた。(それだけの理由ではないと思うが) それにしても、よく4本も橋を架けたものだ。

一方で、上田と松本・諏訪方面をつなぐ道路も改善が進んだ。

まず1976年、国道254号線の三才山(みさやま)トンネルが開通した。これにより、上田から松本へのアクセスが大幅に改善した。何しろそれまでは、青木峠のクネクネした細い道路を時間をかけて通るしかなかったからだ。高速が整備されてない時代、車で長野や松本へ行くのも一苦労だった。(電車で篠ノ井で乗り換えて松本へ行くほうが近かったと思う)1988年には、上田の塩田平と国道254号線を結ぶ平井寺トンネルが開通し、松本への距離がより短縮した。

続いて1978年、東信と中信の諏訪地方を結ぶ新和田トンネルが開通し、上田から諏訪へのアクセスが向上した。こちらも、開通以前は旧中山道のルートで和田峠を越えるか、白樺湖まで峠道を登って下るしかなかったので、格段に便利になった。

山々に隔たれていた時代は、盆地の外に出るのはさぞかし大変だったろう。信州は盆地ごとに文化が異なるというのも納得できる。

時代は下って1982年、上田市住吉と東御市(当時は東部町)をつなぐバイパス、浅間サンラインが開通した。(軽井沢までの全通は1993年) 上記と比べると地味だが、当時、小諸や佐久、軽井沢方面へ車で向かうには国道18号線しかまともな道がなかったので、かなり便利になったと思う。扱いは農道だが実際は国道18号線のバイパスとして使われた。私が大学時代に東京から志賀高原へスキーバスで行った時も、浅間サンラインを通った記憶がある。

そして、1988年には上田市街地を通る国道18号線のバイパスとして「上田バイパス」が開通した。これにより、市街地区間の国道の渋滞も緩和された。浅間サンラインと上田バイパスは神科の田園地帯を縦横に突っ切る形となったので、道路沿いには飲食店やショッピングセンターが一気に出現し、神科の風景も一変した。2000年代には信濃国分寺あたりまで伸びて、国道18号線と接続した。

インフラ整備の極めつけは、高速道路と新幹線の開通である。

1996年、当時小諸まで開通していた上信越自動車道が更埴ジャンクションまで開通し、上田にも高速道路が通ることとなった。この開通により、上田インターが神科に造られて周辺道路が整備され、開発が進んだ。私の実家の裏山は高速道路の通過で削られてしまい、子供の頃によく遊んだ場所が失われて残念に思った。

1997年には、北陸新幹線が東京から長野駅まで開通した。上田駅も新幹線用に建て替えられ、駅前も広く整備された。この開通により、上田から東京まで1時間半以内で行けるようになった。それまでは、特急あさまで2時間半かかっていたので、東京が格段に近くなった。(碓氷峠の電気機関車がなくなったのは返す返すも残念)

上田の記憶 市街地

次に、市街地の変遷について記憶をたどってみた。

もともと上田は東信の中心都市であり、上田経済圏は東信一帯に広がっていた。西は坂城、東は小諸や軽井沢、南東は佐久市から小海、野辺山あたりまで広大な商圏を有していたと思う。また、北東方面は県境を越えた嬬恋村あたりも上田経済圏で、買物に来ていたと思う。当時、私の父は、上田市内の陶器店で配達の仕事をしていた。なので、よくトラックに乗せてもらい、白樺湖、野辺山や清里、万座温泉などに行ったものだ。

当時は、市街地も大いに賑わっていた。

私の親が勤める陶器店は、市街地の原町にあった。昭和の時代、原町はデパート「ユニー」を中心にかなり栄えていて、人通りも多かった。私が学生時代によく行ったのは、ユニーの3階にあったレコード屋さん(確か井上楽器店だったと思う)と5階にあったゲームセンター、今も残る平林堂書店、西澤書店、古本の斎藤書店など。また、今はないが「はぎわら」という靴屋さんが入る雑居ビルの2階にあったゲームセンターにも、よく行った。入店してゲーム台に座ると、当時の店主がコーヒーを入れてくれた。

この原町とスクランブル交差点で接続していたのが、海野町、松尾町、大手町である。当時は電線がまだ地上にあって、どの商店街にもアーケードがあったので、雨や雪の日も買物ができた。交差点の信号が青になると、大勢の人がひしめきあって横断していた。当時は郊外型のショッピングセンターなど存在しなかったので、買物は市街地に出るのが一般的だった。バスの本数も多かった。

また海野町では、よく琴光堂でレコードを買い、その2階のマルブンで文房具を買い、上田デパートの2階にあった貸レコード店でレコードを借りたりした。今も人を集めている「じまんやき」の富士アイスの存在は、当時は目に入らなかった。ちょうど私が高校の頃、上田出身のバンド、H2Oの「想い出がいっぱい」がヒットしていて、市内でもよく流れていた。(ザ・ベストテンに出演した時は、市内の銭湯から中継した) デパート「ほていや」の地下にも、ゲームの品揃えが豊富だったゲームセンターがあり、高校時代、授業の帰りによく通った。また、今も残る映画館「映劇」の近くにもゲームセンター(日の出という店名だったと思う)が何軒かあって、よく行った。当時はファミコンが出たばかりの頃で、ゼビウスやギャラガなどの人気ゲームが多く出始めた時代だった。ゲームセンターも何箇所もあって活況だった。プレイがうまい人の背後には、よく人垣もできていた。

デパートでいえば、当時は駅前にイトーヨーカドーがあり、駅から近い天神町には西武百貨店があった(今はルートイン)。現在のイオンモールはジャスコだった。スクランブル交差点の一角にはスーパー「西友」があった。ここが今では駐車場付きのコンビニになっているのが信じられない。

他にも、今とは比較にならないくらい、さまざまなお店が商店街に軒を連ねていた。残念ながら学生の私が行ける店は限られていたが、市街地を歩くと、大人になった気分を味わえたものだ。高校を卒業して私は東京へ出たので、袋町とかの繁華街に行った記憶がないのが心残りだ。

上田の魅力

この30数年間で上田は大きく変化した一方、変わらないものや、魅力が増したものもある。ここからは、私が感じる上田の魅力を、幾つか挙げてみたい。詳細な説明は、Webやパンフレットなどを見てほしい。

<上田城と真田氏史跡>

まず、上田といえば上田城と真田であろう。私も小学生の時から、真田氏と上田城の攻防は社会の授業で詳しく教えられた。当時は「真田十勇士」のイメージが強かったが、まさか大河ドラマになるとは思わなかった。小学校の遠足で行った砥石城やお屋敷公園も観光地として整備され、案内板もあるので容易に行けるようになった。上田城も、少し前までは駐車場不足だったが、今は広い駐車場もできて、大勢の観光客を受け入れられるようになった。私のオススメは上田城よりも、市街地から東北方面の旧真田町に点在する史跡群だ。お屋敷公園に隣接する真田氏歴史館を起点にすると巡りやすいと思う。

<山岳展望>

上田市は、山岳展望も素晴らしい。市街地から東北の小高い丘に登れば、北アルプスを一望できる。特に「稲倉の棚田」あたりや、その上の菅平道路から眺めるのがオススメだ。晴れていれば、槍ヶ岳の穂先も確認できる。また、市街地から国道144号線を東北に進むと、菅平高原を象徴する四阿山が見える。その東側には、浅間連峰から連なる峰々の西端に位置する烏帽子岳(写真)や、南側には八ヶ岳連峰の北端の蓼科山がよく望める。

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<古い町並み>

上田には、古い町並みが意外と残っている。まず市街地には、北国街道の宿場町だった面影が至るところで見られる。観光で整備された柳町が有名だが、その西側の街道沿い(紺屋町)や、東側の常田あたりにも、宿場町の町並みの雰囲気がわかる程度に残っている。また、坂城町に近い上塩尻地区の旧街道沿いには、白壁の建物や蔵などが多く見られる。柳町以外は観光化されていないので、昭和の町並みの景観を味わえてオススメだ。

<信州の鎌倉>

今年になって、信州の鎌倉と呼ばれる塩田平の史跡群などが、日本遺産に登録された。その名も、『レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」
~龍と生きるまち信州上田・塩田平~』。大仰なタイトルだが、別所温泉、生島足島神社、信濃国分寺が1 本の直線状に連なるレイラインになるとは知らなかった。塩田平とその周辺には、「安楽寺八角三重塔」、「大宝寺三重塔」と国宝が2つもある。それ以外にも史跡の宝庫なので、別所温泉と合わせて巡るのがいいだろう。

<その他>

その他でひとくくりにするのも失礼だが、平成の大合併で、上田市は旧真田町、丸子町、武石村と一体となった。これにより、北は菅平高原から南は鹿教湯温泉、美ヶ原に至る広大なエリアが上田市となった。上田の市街地観光と組み合わせれば、かなり充実した観光プランができると思う。

最後に

上田は年間を通して晴れる日が多く、雪も比較的少ないので暮らしやすい町だと思う。この30数年間で景観はかなり変わったが、レトロな建造物や昔ながらの町並みも残っている。上田には定期的に帰省しているので、これを機に、上田の知られざる魅力を発掘し、発信していきたい。

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