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自分の思考を発信する意味

こうしてnoteで文章を書き、発信することに何の意味があるのか?収入が得られるわけでもないし、誰かにとって役立つわけでもない。大勢に読まれるわけでもないし、そもそも書くの面倒だし…。

私も一応ライターのはしくれだが、よくこんなことを考える。そしてその都度、「これは文章の修行なのだ」、「これは発信に値する情報なのだ」と思い直し、不定期にnoteを更新している。いや、気が乗った時に書いている。
ライターの仕事では、大量に文章を書く訓練が欠かせない。日常的に書くことを習慣にしていないと、いざ書く時に文章が書けずに悩み、膨大な時間がかかることがある。もちろん、書くことが楽しい時もあるが、運動と同じで疲れるし、やる気が起きない時も多い。

しかし最近、書くことに新たな意味を見出した。それは考えるため。自分流に言い換えれば、未知の世界(社会)に触れて自分を拡張するためである。この話は以前のnoteでも「考えるって何?」というテーマでまとめたが、今回は、もう少し先へ進む。

「考えるために書く」ことは、多くの人が多かれ少なかれ実践していると思う。そこでは、自分の思いを言語化することで行動に意味を持たせ、人生を豊かにしたいという意識が働いていると思う。ここで言う「豊かな人生」の定義は人それぞれだが、私は、好奇心の赴くままに、自分の心の中の世界を拡張することが、それに近いと考える。拡張とは、自分の思考、知識、出会い、体験を積み重ねる、記憶として自分の中に定着させることである。そのことを実感するために、発信という行為が必要になってくる。

自分はなぜこれが好きなのか、なぜこの人に魅かれるのか、なぜここに行きたいのか、等‥、自分の好奇心や心に刺さった事象が、自分にとってどのような意味があるのかを考え、言語化すること。そして、それを発信して、世界に公開すること。この一連の行為が、自分を殻に閉じ込めずに世界(同じ考えを持つ仲間)と接続させ、まっとうに世界を拡張できる。それにより、自分の可能性が高まる。たとえ誰からも読まれなくても、発信することで、自分の信じる道を進んでいる手応えが得られることは大きい。

ここら辺については、まだ言語化が足りていない。次回、もう少し掘り下げていきたい。

本エッセイは、宇野常寛氏の「遅いインターネット宣言2020」から着想を得て書いたものです。詳細はこちら。


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