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記憶という宝箱

年を重ねるにつれて、自分の子供の頃や学生時代の出来事を、ふと思い出すことが多くなった。そして、いったん追憶を始めると、当時の自分に乗り移り、追体験したくなる。

先日は、こんなことがあった。

何の折かは忘れたが、高1の夏休みに初めて一人旅に出たときに遭遇した情景を、突然思い出した。高校生になり、学割というものを初めて使い、山陰の鳥取・島根方面を泊りがけで旅行した。当時は旧国鉄の赤字ローカル線が廃止になる寸前で、乗れるうちに乗っておきたいという思いが止まらず、水泳部の夏練を休み、思い切って出かけたのだ。実家の長野県から西日本に行くのは初めてだった。

今はない周遊券で普通列車と急行のみで、山陰本線をはじめとするローカル線を、ひたすら乗り回した。ただ鉄道に乗るだけが目的だったので観光はしなかったが、車窓からの景色を眺めることが至高だった。本でしか見れなかった風景をこの目で確認する作業は、とてつもなく楽しかった。夜になると夜行急行列車に乗り、周遊券の範囲内で睡眠を取った。そして、日本は広く、さまざまな土地に人が暮らしていることを実感した。

旅の途中、なぜか夜の海を見たいと思い立った。思うまま、日も暮れた夜7時くらいに海岸近くの無人駅で途中下車し、海岸まで歩いた。田舎道で誰ともすれ違うことなく、完全に一人だった。駅からは海が見えなかったが、少し歩いて緩やかな砂丘を登ると、突然、夜の海が視界に飛び込んできた。

驚いた。

夜の海は暗いという予想に反し、明るく輝いていた。明かりを灯した船が、沖合に何艘も出航して、等間隔で浮かんでいたのだ。夜の暗い海を堪能して一人黄昏れたいという私の思いは、完全に覆された。この船がイカ釣り船であることは、後に知ることになる。

その時の私は、3つの感情が織り交ざり、心が揺れていた。1つは、予想外の明るい海を見た途方もない驚き、次に、来てはならない場所に来てしまったという恐怖感。山国である長野県育ちの私にとって、海は憧れであると同時に異世界でもあったのだ。そして、日常世界からかけ離れた遥かな地へ来てしまったという寂寥感である。

明るい夜の海を見た後、高校一年の私は駅に戻り、列車で近くの地方都市の駅の待合室で夜行の急行を待った。昼までの旅のワクワク感から一転、悶々としながら時を過ごした。待合室にいる人は異人で、話してはならないと感じた。そして、早く家に帰らなければいけないと思った。自分の居場所ではない世界に足を踏み入れてしまったからだ。

旅の記憶はどれも貴重で、今でも当時の自分の思いが蘇ってくるものばかりだ。そして、いつしか私は、自分史を書くように旅行などの出来事や思い出を年表として記録し、時々見返すようになった。

単に過去を懐かしんでいるだけで、後ろ向きな行為に見えるかもしれない。しかし、過去の自分を想起することは、私にとって至高の時間である。なぜならば、過去の自分が何を思い、何に心を動かされたのかを確かめることで、自分というかけがえのない存在を確認できるから。そして、自分の意志で人生を歩んでいることを実感し、自分の人生は間違ってないと思えるからである。この強烈な思い込みは、生きる上で案外大事なことだと思う。

私は、こうした過去の記憶や思い出を「宝箱」と認定し、自分の心の中の倉庫に永久保存して、いつでも引き出せるようにしている。宝箱を多く持つことにより、自分はこの先何があろうと前向きに生きていける。もちろん、思い出したくないこともたくさんあるが、それは宝ではない。宝箱を集めることに夢中になれれば、それでいい。

これからの人生の楽しみは、宝箱をどれだけ増やせるかということだ。現時点では数十個だが、今後も宝と思える仕事や体験ができるよう、日々を組み立てていきたい。また、埋もれている記憶も次々と蘇えらせて、宝箱を増やしたい。そうすれば自分の人生の肯定感も高まり、よく生きていると自分をほめたくなる。

人生はよくRPGに例えられる。しかし、人生ゲームで得た宝箱は決して換金せず、経験値とともに心の中に大事に保存しておきたい。それが、真に豊かな人生をおくる秘訣だと思う。


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