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秋の山村集落で「砂漠」に思いを馳せながら、歩く

よく晴れた秋の日は、柔らかに照りつける日差しが心地よい。足を動かしていると体がじんわり暖まってきて、太陽のありがたさを実感する。
そんな日に集落の小道を歩きながら、こう考えた。

私が住む集落には、空き家になって久しい古民家や蔵をはじめ、いつ作られたのかしれない石垣や石碑、石仏などが至るところに残っている。いや正確には「残されている」というべきか。
多くの人々がここで暮らしていた一昔前(遠い昔では決してない)、それらの建造物は住民の暮らしの中にあり、視界の中で息づいていたはずだ。しかし過疎化が進み、人口減少と高齢化が進んだ今は、かつて作られた建造物たちは住民の生活から断絶し、放置されている。住む人がいなくなり、見る人や使う人がいなくなっても、モノは消えない。何ができるわけでもなく、息を潜めてただ存在し続けているように見える。

集落内の小道と石垣
この道路を作った時に建立された石碑

そんなことを思いながら、私は最近読んだ本を頭の中で反芻し、眼前の景観とかけ離れた「砂漠」について、思いを馳せていた。

四季が移ろい、緑が豊かすぎる山村に暮らす人びとにとって、砂漠は想像の範疇を越えた異世界である。そもそも、緑がなく砂しか見えない世界が地球に存在すること自体、一昔前の住民には信じられなかったはずだ。
しかし今は、世界のあちこちの絶景がTVで放映され、外国はすっかり身近になった。砂漠であれ氷原であれサバンナであれ、もはや未知の世界はない。この集落と地続きで存在している場所の一つとして認知されている。

空き家と化した古民家には、タペストリーのようなツタが掛かる

しかし、私たちが認知できる世界は広がったが、そこから漏れてしまった世界も存在する。例えば、古民家の土壁に縦にツルを伸ばしているツタだ。このツタの種は、どこから飛んできて、いつからここに葉を伸ばし、どこまで伸びようとしているのか?寿命を終えるのはいつなのか?そして、このツタの存在を認知している人は私の他に何人いるだろう?
普段なら視界に入らない何気ない景色や建造物も、見ようと思って見てみると、新たな驚きや発見がある。植物は植物の論理で繁茂し、虫は虫の論理で飛び回っている。動植物だけでなく石垣や石碑などの建造物も、理由があってそこに存在している。
このように、日常生活の歩みを意識的に「遅く」して、あたりを見渡してみれば、別の世界線に紛れ込んだような錯覚を覚え、世界は多様で不思議に満ちていると思えてくる。

緑が全くない砂漠にも、よくよく探せばオアシスが見つかり、よくよく観察すればサソリのような生物も暮らしている。そんな景観の隙間を探していくことが人生を楽しむ秘訣だと、改めて思った。
(このエッセイは、宇野常寛氏の著作「砂漠と異人たち」にインスピレーションを得て書いたものです)


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