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保健室で感じた優しさの形

高校生の頃はじめて、学校に行きたくないという感情を味わった。

幼稚園生の頃から対人関係に悩むことが多くて、辛い思いもたくさん経験したと思う。それゆえ学校というものに疑問を抱くこともあった。ただ、学校に行きたくないと思ったことはそれまで一度もなかった。

だけど、そのときは何かが違っていた。
これまで学校に対して抱いていた負の感情とはまた別の、自分ではどうしようもないようなもの。
自分のことを気持ち悪いと思う気持ちが頭の中を埋め尽くすような感覚だった。

学校に登校したのはいいものの、お昼休みを迎える頃には心がいっぱいいっぱいになっていることが多かった。
友達とご飯を食べているとき、楽しそうにしていたいと思うのに、表情がついてこない。
ずっと真顔だったり、泣きそうな顔をしてしまうことが増えていた。

もし友達に「どうしたの?」と聞かれても、自分でもわからないから答えられない。
私のせいで雰囲気を悪くしたら申し訳ない。
大好きな友達なのに今は笑い声を聞いていたくない、一人にしてほしい。

いろんな感情がわいてきてどんどん辛くなった。
しばらくそんな日々を過ごして少しましになり、今度はもう大丈夫だと思って過ごしていたらまた辛くなり。
そうしていくうちに高校3年生になった。

私は中高一貫の学校に通っていて、
"高校の保健室の先生は、中学の保健室の先生と比べて厳しい"という噂を聞いていた。
だからその日まで保健室を利用したことがなかった。

だけどその日はもう当時の私の限界だった。
どうしても一人になりたい、心にやられて疲れた頭を休めたい。
何も考えたくないと、半分思考停止したような形で保健室に向かった。

噂とは違って、保健室の先生は優しかった。
熱もないのに「休みたいです」と言う私を、問い詰めずに穏やかに接してくれた。

隣のベッドが見えないように閉められたカーテン、柔らかで白いベッド、保健室の先生が持ってきてくれたアクエリアス、かすかに聞こえる学生の声、窓から差しこむあたたかな光。
それら全てが心地良かった。

今まで辛かったものが少し軽くなったようで、あんなに辛かったのにこうも簡単に心が回復するのかということに少しだけ苦しくなって、心がわけのわからない涙をこぼしているようだった。

その後も何度か保健室に行った。
私は最後まで休みたい本当の理由を伝えられず、腹痛だとか頭痛だとか言っていたけれど、保健室の先生もそれ以上は聞かないでいてくれた。

もう高校を卒業して数年経った。
当時はこの感情を上手く解釈できなかったけれど、今になって思うことがある。

私はあの日、信じて待っていてもらえたことが嬉しかったんじゃないか。

はじめて保健室に行った日を思い返す。
そこで感じたのは、心を溶かしてくれるあたたかい光のようなものだった。
と同時に、私が秘める力を当たり前のように信じて、私自身の力で立ち上がることをゆっくり待っていてくれるような、そんな優しさを感じた。

私はきっとあの時、自分がなぜ苦しくなっているかがわからなかった。
誰かに助けてもらおうにも、苦しさの理由がわからなければどうしようもなかった。

その苦しみを解釈するための辛い時間を、優しい光で抱えてくれていたような感覚だった。

今すぐに問題が解決することと、救いが存在することは別だったんだ。
救いとなるものは地味で、目に見えなくて曖昧で、それでいてこんなに確かなものだったのか、と思う。

何かが溢れてしまって苦しい人がいるとき、
その心をあたたかく溶かして、抱えているものをゆっくりと安心感に変えていけるような。
その人がいつかまた笑うことを、当たり前に信じているような。

私もそんな優しい人に、あのとき感じたような曖昧で確かな救いに、なりたいと思う。

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