忘備録 映画ドライブ・マイ・カー
村上春樹は特に初期の作品をよく読んでいたので、気になっていたものの映画館での機会を見逃したドライブ・マイ・カー を、Amazonプライムで見つけました。
こんなに手軽に見ることができて、本当にすごい時代だなと思います。
俳優で舞台脚本家の主人公は、妻を亡くしてから数年後に呼ばれた芸術祭で、乗っているのも忘れる位心地よい運転をしてくれる女の子と、妻を知っている俳優に出会う。というあらすじ。
最初のクレジットが出るまでの長い冒頭は、印象的なカットもあるのですが、そのテイストに乗れるか乗れないかで、この映画への好みが別れるかもしれないと思いました。
☆以下半分ネタバレを含むので、閲覧注意ください。
主人公の亡くなった妻は同性の自分から見ても、よく理解できないキャラクターで、正直共感できず、なかなか物語に入り込めませんでした。朗読する声は雰囲気がありました。運命を握るファムファタルというポジションですが、最後はすごく人間的に描かれていて、そこは村上春樹さんならではなのかなと思いました。(映画の原作は読んでいませんが…)
2人の男性に伝えた物語の結末は、彼らへの気持ちと望みが、それぞれ隠されているのかなと想像しました。
この女性の浮世離れした預言者的な存在が、村上春樹の意識と無意識の何重にも重なった構造を成し、観ている人に観ている人の解釈を可能にして楽しめるのかなと思いました。
運転手を務める女の子の方が、より繊細に創られていて理解できました。物語上、当然かもしれませんが。。
(それにしても、タバコを吸うシーンが多くて気になりました苦笑 映画界ではまだ吸うことがかっこいいという表現なのか、昔のオマージュなのか、スポンサー?のせいなのか、いずれにしても違和感がありました)
登場人物達が、チェーホフの劇を演じている設定が欧米には馴染み深くてよかったのかなと思いました。
多言語で劇が進み、役者さん達がそれぞれの母国語で演じ、言葉が通じていないのに想いが通じ合うという設定が素敵でした。
特に、韓国の女優さんと中国の女優さんのやりとりの瞬間がとても自然にそれを具現化していて、すごくよかったです。
無味乾燥なセリフがだんだんとその人の生きた言葉になる展開は説得力がありました。
主要キャラクターが人に言えない、言葉にできない罪悪感を抱えていて、苦しい想いを抱えていることに共感しました。
故意ではないけど、或いは、故意にやってしまった小さな行動が、大きな後悔を生む結末を招くことは、長く生きていれば一度や二度あるのではないか。と思い起こさせられました。
と同時に、バレたくないけど、隠しても置けないというジレンマも心に刺さります。
それを最後に神様に許してもらおうというのは、少し疑問を感じましたが、確かに痛みを感じました。
その痛みを表現できる場があり、共有することが人間には必要なのだということをこの映画を観て改めて感じました。
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