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2:ワンネスの体験


2002年はリトリート三昧の一年でしたが、その後、流れで伊勢志摩に移り住むことになりました。そこでフラワーエッセンスのカウンセリングや、海外のスピリチュアルな講師を招いたイベントのオーガナイズなども行うようになりました。また、ガイアシンフォニーという自主上映の映画の上映会を主催したこともあって、伊勢志摩地域にスピリチュアルな仲間のネットワークができるようになりました。

伊勢に移り住んでからも、フーマンが来日した時はリトリートに出ていましたが、2005年の夏、突然フーマンがハワイの海で亡くなったという知らせが届きました。そして、アーディも教えをやめてヒマラヤにこもってしまいました。貴重な先生が二人ともいなくなってしまったことは、とても悲しいことでした。

ちょうどその頃、南インドのとあるご夫婦がはじめた目覚めのためのムーブメントが、スピリチュアルな世界で有名になってきていました。目覚めのプロセスを加速させるためのエネルギーワークを学べるコースを開催していました。

もともと、南インドの小さな村の小学校を開いていたご夫婦が、生徒たちにエネルギーを伝え始め、多くの子供たちに目覚めの体験が起こってきたというのが始まりでした。両手を相手の頭において伝授する、エネルギーのアチューメントの一種で、特定のコースを受けた人なら、それを人に伝えられるようもになるということでした。それが世界中に広まっていき、インドで大規模なコースが開かれていました。

私もうわさでそのムーブメントのことをきき、日本で開かれていた集まりに参加してみることにしました。そして実際にアチューメントを受けてみて、悪い感じはしないなと思いました。それで、9月にインドで行われる21日間のコースに参加してみることにしました。

そして2005年の9月、100名ぐらいの参加者と共に、インドツアーに参加しました。施設は広大で、静かで神聖なエネルギーに満ち溢れた瞑想的な空間でした。私は、フーマンやアーディのリトリートの雰囲気を思い起こし、“なんてすばらしいところだろう” と思いました。

コースは、すべて若いお弟子さんたちによって進められていきました。21日間のコースの内容は、子宮にいるときを含め、幼いころの記憶をたどり、潜在意識を浄化していくプログラムや、人間関係の癒し、ホーマ(日本の護摩焚の起源だそうです)と呼ばれる火の儀式、ダンス、瞑想、祈り、ヨガなど多彩でした。具体的にマインドを見ていく方法や、チャクラと呼ばれる身体のエネルギーセンターを順番に開いていく方法なども教えてもらいました。

アーディとフーマンのワークを受けていたおかげか、反応がとてもクリアで強く、何が起こっているかという理解もどんどん深まっていきました。コースの最後に、アチューメントを人に施すことのできるようになるワークを、一人一人伝授してもらい、コースは終了しました。

日本に帰って、私は心身ともにとても元気になっていることに気が付きました。インドなので、多少宗教的な雰囲気はあるものの、何かを強制されたりといったことはまったくなく、あくまでも個々のプロセスを深めていくことが目的なので、個人的に関わる分にはなんら問題ないという感じでした。

2006年の12月には、そのムーブメントの上級コースに参加しました。けれども、気楽な気持ちで参加したこの10日間のコースが、結果的にその後の私の人生を大きく狂わせることになってしまいました。コースは10日間のものでしたが、一日ごとに身体の7つのチャクラを開いていくようにアレンジされていました。例えば、お腹の第三チャクラにエネルギーをフォーカスするワークでは、自信に満ち溢れた喜びの感覚が沸き起こったり、ハートの第四チャクラあたりにフォーカスすると、愛に満ち溢れた神聖な感覚になったり、のどの第五チャクラのあたりだと、至福感があふれて、“ふふふっ”というような笑いがとまらなくなったり、額の辺りだと意識が研ぎ澄まされた感覚だったりと、同じ内的体験でも、身体のどこにその焦点が当たるかで、体験の味わいがまったく異なることがわかりました。そのたびに、私は笑いが止まらなくなったり、涙が止まらなくなったり、とても激しい身体の反応が起こりました。アーディやフーマンのリトリートのときの体験を、もっと身体的に、エネルギー的に激しく体験しているような感じでした。

世界中にはいろんな宗教の経典がありますが、同じ宇宙の真理について述べていても、微妙に味わいの違いがあります。例えば、仏教だと“無”のように、下腹のエネルギーに親和性がありますし、キリスト教だとハートの愛が重要視されます。ユダヤ教は、男性性と女性性の結合を表すのどのチャクラと関わっていたり、ヒンドゥー教は額や天頂といった、宇宙とのつながりが強調されていたりします。こうした宗教間の味わいの違いというのは、同じ一つの真理を、身体のどのセンターをメインの視点として見るかで違ってくるのではないかなと思います。

そして一つずつ身体のセンターを開いていき、ある日それらのすべてが入り混じったような味わいを体験することがありました。それはなんだかとても親密でしっくりくる感覚で、“これが本来の私なんだ” というような密着感を感じる至福の味わいでした。まるで外の世界そのものが、ぴたっと身体の境界線に密着するような感じで、内側の世界と外側の世界の境界を越えて、すべてが私であるかのような親密な味わいが生まれ始めました。

不思議な感覚のまま、次のセッションが始まりました。それはシヴァ神を呼び起こすというセッションでした。シヴァ神というのはヒンドゥー教の神様で、破壊と創造をつかさどると言われています。セッションが始まると、強烈なエネルギーが体を駆け上りました。そして突然、何かが目の前ではじけるような感覚がしたかと思うと、目の前に創造主が現れたのです。創造主のヴィジョンが現れたとかそういうことではなく、創造主の意識しか存在しないという真実が、圧倒的なリアリティをもって顔面から押し迫ってきたのです。“私は存在していない” と認識している内側の感覚と、“お前は存在していない” と創造主によって認識されている外側からの感覚が、中心点で一つになって、文字どおり、“私” という存在がかき消されてしまったかのようでした。衝撃のあまり、号泣が止まらなくなりました。

そして休憩を挟んで、次のセッションが行われました。ワンネスの意識につながるというセッションでした。イルカやクジラの鳴き声の入った音楽が流れる中、また “私” という感覚が消えていったかと思うと、今度は突然 “すべては私だ” という感覚に包まれました。あまりにも懐かしくて、あまりにも当たり前で、あまりにも親密な喜びの感覚に包まれて、どうしてこんな大切なことを忘れることができたのだろう、と今度は泣き笑いが止まらなくなりました。聞こえる音、見えるもの、周囲の景色、ともにいる人々・・・。境界線があると思い込んでいたすべての境界が消え、“私” という一つのワンネスがただそこにありました。言葉で表現すると嘘になってしまいそうな、微妙で、でもあまりにも大切なリアリティがそこにありました。ただひれ伏して、泣きつくすしかありませんでした。この衝撃的なワンネスの体験は、私の人生観を根本的に変えてしまうことになりました。

そして、10日間のコースの最終日を迎えました。インドにはパドゥカという足型をかたどった儀式用の置物があるのですが、その前に一人ひとり順番に歩み寄り、聖なる存在に祈りをささげるというセレモニーがありました。私は思わず “このワンネスの意識のために、すべてを捧げます” と祈りました。結果的にその後、この誓いを何度も後悔するはめになったのですが、自ら志願した私を、神様は決して逃がしてはくれませんでした。

10日間のコースを受けて日本に戻ってきた私は、ものすごく体調を崩してしまいました。自他の区別がつかないワンネスの意識を体験して、おそらく脳のどこかが開いてしまっていたのだと思います。そのために、ワンネスの意識と、通常の自我の意識がいつも一つの身体の中で共存しているような、分裂した状態が起こり始めてしまいました。そして様々なエネルギーに対して、過度に敏感になってしまい、自律神経やホルモンもバランスを崩しがちになりました。人と話をするだけで頭が痛くなったり、人混みにも行けなくなりました。化学繊維も急に受け付けなくなってしまい、ストッキングやウールもだめになってしまったので、冬場は着るものがなくて本当に困りました。オーラが圧迫される感覚があって、身体に締め付けられるような痛みと不快感を感じてしまうのです。

“このままではだめだ” といろんなヒーリングのツールを試しているうちに、今私が “ガイダンス” と呼んでいる内的導きがくるようになりました。そして具体的に何をすればいいか、どうすればいいかなど、直感的に理解できるように、指示をくれるようになったのです。最初は微妙なものでしたが、少しずつクリアになってきて、だんだんその導きを信頼するようになっていきました。

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