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ジャズ・アルバムのライナーノーツ(8)メイナード・ファーガソン1970年代のアルバム4タイトル

メイナード・ファーガソンが1970年代にリリースしたアルバムのうち、『M.F.ホーンズ』『カメレオン』『プライマル・スクリーム』『カーニヴァル』の、短めのライナーノーツをまとめて掲載します。内容に重複がありますがご容赦ください。ティモシー・リアリーとサイババに師事したやばい時代のことも書きました。

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メイナード・ファーガソン/M.F.ホーン

 メイナード・ファーガソン(1928〜2006)は、カナダ出身の稀代のハイノート・トランペッターだ。1950年代のスタン・ケントン楽団での活躍、50年代末に結成した「バードランド・ドリームバンド」、70年代以降の「ロッキー」「スタートレック」のヒットなどなど、華麗な話題に事欠かないファーガソンだが、60年代にかなり特異な体験をしていることは意外と知られていない。

 この『M.F.ホーン』は、ファーガソンが69年にイギリスに渡り、イギリスのミュージシャンたちと組織したビッグバンドによるアルバムだ。「イーライズ・カミン」や「マッカーサー・パーク」といった同時代のポップ・ヒットを初めて採り上げた作品として知られ、特に「マッカーサー・パーク」は代表曲になったわけだが、インド音楽風の「チャラ・ナータ」や、ロック・ビートを採用した「Lードーパ」といった曲に、彼が60年代に体験した「オルタナティヴ」な生活が投影されているところが実に興味深いのだ。

 1963年11月、ファーガソンは家族とともにニューヨーク州の小さな町、ミルブルックに引っ越した。LSDをはじめとするサイケデリック・ドラッグの研究と、それらを使用して意識の拡大を図るプロジェクトを始めていた、ハーヴァード大学のティモシー・リアリーたちと共同生活するためだ。アメリカの60年代サイケデリック・カルチャーに大きな影響を与え、LSDなどの薬物を使用する「アシッド・テスト」を提唱し、のちにニクソン大統領が「アメリカで最も危険な人物」と呼んだリアリーの下で、ファーガソンは「精神的覚醒」を求めてドラッグを摂取していた。そして67年、ファーガソンと妻はインドに渡り、マドラスの学校で音楽を教えることとなる。インドに滞在中、ファーガソンは日本でも有名なグル、サティヤ・サイババに師事していたという。

 69年、ファーガソンはインドからイギリスに移住、CBSと契約して『ザ・バラード・スタイル・オブ・メイナード・ファーガソン』をリリースする。そして第二作として70年に発売されたアルバムが、この『M.F.ホーン』だ。プロデューサーはイギリスのコンポーザーであるキース・マンスフィールド。テレビ音楽のヒット作を数多く作り、のちに「ファンキー・ファンファーレ」がヒップホップでサンプリングされたことでも知られるマンスフィールド(歌手サリナ・ジョーンズと結婚していたこともある)は、このアルバムでは「チャラ・ナータ」と「L-ドーパ」という「問題作」2曲を作編曲している。

 ローラ・ニーロの「イーライズ・カミン」(スリー・ドッグ・ナイトが69年にヒットさせた)と、ジミー・ウェッブの「マッカーサー・パーク」(俳優で歌手のリチャード・ハリスのヴァージョンが68年にヒット)を編曲したのは、のちにファーガソン楽団でバス・トロンボーンを担当することになるエイドリアン・ドローヴァーだ。また、カナダ生まれでイギリスで活動していたトランペッター=コンポーザーのケニー・ホイーラーが「バラード・トゥ・マックス」の作編曲を担当していることも興味深い。いかにもホイーラーらしい、内省的でリリカルな曲だ。ちなみにホイーラーは、次作『メイナード・ファーガソン』(71年)では「ファイアー・アンド・レイン」「マイ・スウィート・ロード」「ユア・ソング」を編曲し、72年の『M.F.ホーン2』ではミシェル・ルグラン「おもいでの夏」編曲と「フリー・ホイーラー」の作編曲を手がけている。「イフ・アイ・ソウト・ユード・エヴァー・チェンジ・ユア・マインド」は、イギリスの作曲家であるジョン・キャメロンの曲。キャメロンはドノヴァン、シラ・ブラックなどの編曲や、数多くの映画、テレビ番組の音楽を手がけた人物だ。

 マンスフィールドの「チャラ・ナータ」はファーガソンのインド体験が、「L-ドーパ」はLSD体験が反映された曲だろう。特に「チャラ・ナータ」の、ヴィーナ(インドの弦楽器)が参加し、ファーガソンが音程が微妙に変化する「ラーガ風」のハイノートを披露する演奏は、かなり強力! 一度聴いたら忘れられないインパクトだ。
(September 2015 村井康司)

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 メイナード・ファーガソン/カメレオン

 メイナード・ファーガソンがジャズ・ファン以外のリスナーに認知されたのは1970年代半ば以降だった。「ロッキーのテーマ」や「スタートレックのテーマ」などで、ポップなサウンドの上でおそろしく派手なハイノートを披露するおじさん、というイメージが形作られたのは70年代の後半のこと。74年に録音、発売されたこの『カメレオン』は、ファーガソンがその路線にシフトした最初のアルバム、と言うべき作品だ。

 1928年にカナダで生まれ、50年にスタン・ケントン楽団に参加したファーガソンは、ケントン楽団をリードするハイノート・ヒッターとして頭角を現し、50年代末に結成した「バードランド・ドリームバンド」以後も、ジャズ界きってのハイノート・トランペッターとして人気を博していた。しかし60年代のある時期から、彼は他のジャズ・ミュージシャンとは異なる不思議な生活を送ることとなる。

 63年、ファーガソンは家族と共にニューヨーク州の小さな町に引っ越し、LSDを用いて意識の拡大を図るプロジェクトに参加した。リーダーはハーヴァード大学の教授で、ドラッグを通じて60年代末のカウンター・カルチャーに大きな影響を与えたティモシー・リアリーだった。それだけでも相当なぶっ飛びようだが、ファーガソンの精神的覚醒というか「悟り」への探究はさらに続いた。67年、彼は妻とともにインドに移住し、音楽学校で教えるかたわら、サティヤ・サイババに弟子入りしたのだ!

 結局ファーガソンは69年にインドからイギリスに渡り、当時のロックやポップスのヒット曲を含む『M.F.ホーン』『M.F.ホーン2』などを発表したのち、71年にアメリカに戻ってきたのだが、70年代以降の彼が、狭い意味での「ジャズ」にとらわれないミュージシャンになったことに、60年代に彼が体験した「オルタナティヴ」な生活が強く関係していることは間違いないだろう。

 さて、この『カメレオン』は、ファーガソンがアメリカに戻ってコロンビア・レコーズと契約してからの第二作目だ。第一作はライヴ盤『ライヴ・アット・ジミーズ』だったので、スタジオ録音の新作としてはこれが「アメリカ復帰第一作」ということになる。
 「カメレオン」は、ハービー・ハンコックが73年にリリースした『ヘッド・ハンターズ』の冒頭の曲。編曲はジェイ・チャタウェイで、ファーガソンのトランペット以外では、ブライアン・スミスのテナー・サックスがフィーチュアされている。「ゴスペル・ジョン」はタイトル通りゴスペル風の曲で、ハイノートを駆使して牧師の説教のように語りかけるファーガソンのプレイがすばらしい。作編曲はジェフ・スタインバーグ。「追憶」は73年に公開された同名映画の主題歌。編曲はファーガソン・バンドのトロンボーン奏者であえるランディ・パーセルで、トロンボーンのソロもパーセルによる。「ジェット」はポール・マッカートニーの73年のヒット。編曲はジェイ・チャタウェイで、原曲を意識した非常に「ロック的」な演奏だ。

 そして「ラ・フィエスタ」は、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(72年)に収録されていたスパニッシュ風の曲。編曲はパーセルと共にトロンボーン・セクションを構成していたジェリー・ジョンソン。ファーガソンとアラン・ザヴォッドのエレクトリック・ピアノの掛け合いでテーマが演奏され、ジョンソンのトロンボーンもソロを吹いている。続く「アイ・キャント・ゲット・スターティド」は、スウィング・ジャズ時代の人気トランペッター、バニー・ベリガンのオハコとして知られるスタンダード。ファーガソンはここで意外と(失礼!)味わい深いヴォーカルを聴かせていて、「スタン・ケントンが僕をスターにした(原曲では〈メトロ・ゴールドウィンが〉)」とか「リンダ・ラヴレースがお茶に招待してくれた(原曲では〈グレタ・ガルボが〉)」とか、歌詞をちょこちょこ変えて歌っているところが可笑しい。ちなみにリンダ・ラヴレースは、72年に大ヒットしたポルノ映画『ディープ・スロート』の主演女優であります。

 「リヴィング・フォー・ザ・シティ」はスティーヴィー・ワンダーの曲。編曲はジェイ・チャタウェイで、スティーヴィーの「迷信」のリフがさりげなく引用されているところが楽しい。最後のところでのハイノート・トランペットは、ファーガソンではなくリン・ニコルソン。そして最後を飾る「スーパーボーン・ミーツ・ザ・バッド・マン」は、ジェイ・チャタウェイのオリジナル。ミディアム・ファスト・テンポのハード・バップ風の曲で、「バッド・マン」ことブルース・ジョンストーンのバリトン・サックスと、ファーガソンが吹くスーパーボーン(彼が考案した、スライド式トロンボーンとバルブ・トロンボーンを組み合わせた楽器)のソロがたっぷりとフィーチュアされている。
(September 2017 村井康司)
 

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メイナード・ファーガソン/プライマル・スクリーム

 メイナード・ファーガソンにとって、この『プライマル・スクリーム』は74年の『カメレオン』と77年の『コンキスタドール』の間に位置する作品だ。

 ジャズ界きってのハイノート・トランペッターとして、50年代から人気者だったファーガソンは、60年代のかなりの部分を、他のジャズメンとはまったく異なる生活をして過ごした。63年、ファーガソンは家族と共にニューヨーク州の小さな町に引っ越し、LSDを用いて意識の拡大を図るプロジェクトに参加したのだ。リーダーはハーヴァード大学の教授で、ドラッグを通じて60年代末のカウンター・カルチャーに大きな影響を与えたティモシー・リアリーだった。そして67年、彼は妻とともにインドに移住し、音楽学校で教えるかたわら、サティヤ・サイババに弟子入りしたのだった。こうした「精神的覚醒への探究」を経てファーガソンはイギリスにしばらく滞在し、同時代のロックやポップスの曲を採り上げたアルバムを数作リリース、アメリカに戻って初めてのスタジオ録音作が『カメレオン』だ。そこで彼はハービー・ハンコックのヒット曲をビッグバンドにアダプトし、ファンクや「クロスオーヴァー(のちのフュージョン)」的なリズムを初めて大々的に起用したのだが、この『プライマル・スクリーム』は、それから約2年のブランクを経て発表された「ファーガソンのクロスオーヴァー時代」における第二作、ということになる。

 このアルバムの大きな特徴は、他の作品では基本的にレギュラー・バンドのメンバーをレコーディングにも参加させているファーガソンが、ボブ・ジェームスをプロデューサーに迎えて、当時ニューヨークで最も売れていたミュージシャンたちを大挙参加させていることだ。ジェームスは75年にコロンビア(CBS)とプロデューサー契約を結び、この『プライマル・スクリーム』がその第一作だったのだ。ジェームスがいつも使っているファースト・コールたち、スティーヴ・ガッド(ドラムス)、ゲイリー・キング(ベース)、エリック・ゲイルにジェフ・ミロノフ(ギター)、そしてジェームス自身のキーボード、というリズム・セクションのタイトでファンキーなグルーヴは、さすがというしかない。そして管楽器にも、デヴィッド・サンボーン(アルト・サックス)、ジョー・ファレル(テナー・サックス)、ジョン・ファディスとマーヴィン・スタム(トランペット)、デイヴ・テイラー(バス・トロンボーン)といった一流どころをずらりと揃えている。ただしおもしろいのは、ソロを取る管楽器奏者は、サックスのマーク・コルビー、フルートのボビー・ミリテロと、どちらもファーガソン・バンドのメンバーだ、というところ。この人選は、明らかにファーガソンの意向(温情というべきか)なのだろう。他にもパティ・オースティンを筆頭とするコーラス隊、12人編成のストリングスも参加しているこの作品は、ファーガソンの全アルバムの中でも、最も豪華な編成によるものだ、と言っていいはずだ。

 そして特筆すべきは、「チェッシャ・キャット・ウォーク」で、チック・コリアが作曲とキーボードで大きくフィーチュアされていることだ。チェッシャ・キャットは、ルイス・キャロルの「ふしぎの国のアリス」に登場する「にやにや笑い(grin)だけあって実体のない猫」の名前。コリアはこの数年後にアリスをテーマにしたトータル・アルバム『マッド・ハッター』を発表するので、もしかしたらこの曲は、その一部として書かれたものかもしれない(『マッド・ハッター』には収録されていない)。この曲での、チックのシンセとファーガソンのトランペットの掛け合いは、ファーガソンがいかに柔軟な音楽性と卓越したテクニックを持っているかを痛感させられる凄まじいもの。他のトラックも、スタンダードをポップにアレンジした「インヴィテイション」、レオンカヴァロのオペラ「道化師」のアリア「衣裳をつけろ」をアダプトした「パリアッチ」(この曲は76年のモントリオール・オリンピック閉会式で、ファーガソンによって演奏された)、このアルバムに参加しているエリック・ゲイルのオリジナルで、レゲエ風のリズムがおもしろい「スワンプ」と、実にヴァラエティに富んでいる。

なお、アルバム・タイトル曲で1曲目に置かれた「プライマル・スクリーム」(ファーガソンとジェイ・チャタウェイの共作)とは、アメリカの心理学者であるアーサー・ヤノフが提唱した心理療法のこと。抑圧された幼児期の心の痛みを、叫ぶことによって再現し克服する療法だ。ジョン・レノンの「マザー」という曲は、ヤノフの大きな影響のもとに書かれた、と言われている。だからこの曲の最初にみんなで叫んでいるわけだが、この辺も「精神的覚醒」を求めるファーガソンの面目躍如、なのでしょうね。
(September 2017 村井康司)
 

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メイナード・ファーガソン/カーニヴァル

 稀代のハイノート・トランペッター、メイナード・ファーガソン(1928-2006)にとって、1970年代後半は、キャリアの頂点ともいうべき数年間だった。1950年にスタン・ケントン楽団でデビューしたファーガソンは、50年代末に「バードランド・ドリームバンド」を結成、しかし60年代はLSDによるサイケデリック体験、インドへ渡ってのインド思想研究など、ジャズ・シーンの中心から外れたところで独自の動きを行う。そして69年にイギリスに行き、ロックやポップスのカヴァーを演奏するビッグバンドを結成した。

 ファーガソンがアメリカに戻ったのは1971年のこと。コロンビア・レコーズと契約した彼は、74年の『カメレオン』から、当時流行しつつあったクロスオーヴァー/フュージョンのサウンドを採り入れ、自身のトランペットを最大限に活かす楽曲をポップでキャッチーな編曲で演奏する、というパターンを確立する。75年に録音された『プライマル・スクリーム』ではプロデューサーにボブ・ジェームスを迎えて、スティーヴ・ガッド(ドラムス)、ゲイリー・キング(ベース)、エリック・ゲイル(ギター)、ラルフ・マクドナルド(パーカッション)といった売れっ子スタジオ・ミュージシャンたちを起用、またこのアルバムの中の「パグリアッチ」が、76年モントリオール・オリンピック閉会式の場でファーガソン自身によって吹奏された。

 続く作品『コンキスタドール』に収録された「ロッキーのテーマ」はビルボードのヒットチャートで28位まで上昇し、同じアルバムの「スタートレックのテーマ」は、日本で「アメリカ横断ウルトラクイズ」のテーマ曲として親しまれている。次の『ニュー・ヴィンテージ』では「スター・ウォーズのテーマ」が話題となり、一般的な人気が盛り上がっている時期にリリースされたアルバムが、この『カーニヴァル』だ。
 ここでも「宇宙空母バトルティカのテーマ」を採り上げ、「派手な映画音楽をさらに派手に演奏する」という勝利の方程式は踏襲されているものの、非常にヴァラエティに富んだ選曲がこのアルバムの特徴だ。

 アコースティック・ギターから始まるブラジル音楽的な「M.F.カーニヴァル」、アース・ウィンド&ファイアのヒットをオリジナルにほぼ忠実に演奏する「ファンタジー」、59年の『メッセージ・フロム・バードランド』に収録されていた編曲(スライド・ハンプトンによる)を再現した「ステラ・バイ・スターライト」、ウェザー・リポートの代表曲「バードランド」、イギリスの歌手ジェリー・ラファティのヒット曲「霧のベイカー街」、ファンキーなオリジナル「ハウ・ヤ・ドゥーイン・ベイビー」、そしてモード的なアレンジを施された「オーヴァー・ザ・レインボウ」。

 天空を駆け抜けるファーガソンのトランペットはもちろんだが、ホーン・セクションの一糸乱れぬアンサンブル、ピーター・アースキンの抜けのいいドラムスを中心としたリズム・セクションのノリのよさにも注目していただきたい。そういえばこのアルバムのレコーディング直後、アースキンはウェザー・リポートに移籍するのだが、ここで「バードランド」を演奏したのは、ファーガソンのアースキンに対する「はなむけ」なのかもしれませんね。
(September 2015、村井康司)


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