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大原の里で思ったこと

2009年から京都に住むようになって、10年を超えた。それなのに、いわゆる寂光寺や三千院のある大原を本格的に訪ねたのは、ほぼ初めて。(ほぼ、というのは、一度仕事かなにかでチラッと訪問したことがあるのだが、ほとんど記憶に残っていないからだ)

いつも観光客で溢れかえっているイメージがあったので、不謹慎かもしれないが、新型コロナウィルス感染症のために観光客が激減しているので、静かに大原を楽しめると思い、天候も良かったので自転車で出かけた。(ちなみに京都の中心部からはママチャリでは難しい坂道を抜けていく必要がある)

寂光寺や三千院といったお寺の感動もあるのだが、その途中で見た景色が印象的だった。電柱もなく、田畑が広がり、そこに鮮やかな菜の花が咲き、山の森林は陽の光が増していくのを待ち遠しいかのように翠色が増してきていた。僕が生まれ育ったところの景色に似ていることもあり、とてもノスタルジックな気分になった。たぶん、このノスタルジックな気持ちは故郷を思い出した気持ちだけではない。こういった人間としての当たり前の暮らしから離れていることへの寂しさというか、都市の暮らしが持つある種の乾きを感じたからだ。世界中どこでも新型コロナウィルス感染症で大騒ぎしているのは、人と人との距離が近い都市部。そこに経済の中心が集中していることが今の混乱を引き起こしている部分もあるのではないだろうか。

野山の景色を見ながら、どんどん想像が広がっていく。

このまま「コロナショック」が世界的に拡大し、経済が疲弊していったらどうなるのだろうか。日本の経済が弱体化すると円安が進行する。また、各国が自国を優先するために食料もエネルギーも輸出を制限して、高騰化するかもしれない。今すでにあの移動の自由を促進することに取り組んできたEUですら移動制限をし始めた。行き着く最悪のケースはブロック経済だが、それは絶対に避けねばならないし、各国のリーダーもそれくらいは考えているだろう。

しかしながら、現実的にそれに近い形にでもなってきたら、食料もエネルギーも外国に頼り切っている今の日本の経済構造かつ弱体化した円では、そもそも社会が成り立たなくなるかもしれない。社会保険も崩壊するだろう。そうなった社会で生きていくには、自分で食料を調達できること(農作)、そしてコミュニティとして助け合っていくこと(共助)が重要になっていく。そう、ほぼ江戸時代のような暮らしに戻っていくことになる。

個人的には、このような江戸時代に成立していた自律・循環・継続、そして共に支え合う社会システムを「エドノミー」と呼んでいる。今の時代には、この「エドノミー」を技術の活用も含めてアップデートしていくことが欠かせない。
そして、そういった新しい社会システム「ニューエドノミー」を成り立たせていくには地域としては都市ではなく、こういった田畑や山林という豊かな資源を提供してくれる地域が中心になる。

大原の里を見ながら心に去来した感じは、これから訪れるそういった社会を予見しているのだろうか。

少なくとも、個人的にはこういった里山のような暮らしを満喫しながら世界とも繋がって人生を豊かに生きたいと願っている。


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