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『チーズと文明』を読む−第4章「地中海の奇跡 ギリシャ世界のチーズ」

「文化の読書会」での対象本は、チーズから文明を読み解いていく「チーズと文明」。今回はその4回目。ギリシャ世界におけるチーズの位置づけについて読み解いていく。

【概要】
アリストテレスもレンネット凝固とチーズ作りの比喩で人類起源と初期発達について述べていたようにチーズ作りは歴史において重要な位置を占めた。ギリシャではBC9世紀にミケーネの栄光を失ったがBC4世紀のアリストテレスの時代には交易網も復活し、フェニキア人とともに広域植民地を作り、チーズの貿易も盛んになり、近東と同様に宗教儀式において重要な役割を果たした。
BC1000年頃ギリシャに伝わった鉄の技術が豊富な鉄鉱石量と相まって経済復興を加速させ、居住地を広げていった。BC8世紀には繁栄の一方で人工急増のため食糧難となり、領土拡張を図ったことで欧州各地に植民市が建設され、チーズ貿易の中心地となっていった。ギリシャ人はその過程でフェニキア人と交わり、近東の文化・宗教などを吸収し独自の文字や宗教へと融合した。
ギリシャ宗教では特別なときに動物を生贄として祭壇に捧げた。日常には人々が普通に食べていた血が流れない食物を捧げ、その中にチーズも含まれた。チーズは古来からのものとして中心的な位置づけとしての伝統を守ろうとしていたと思われる。スパルタでは神殿からうまくチーズを盗む競争まで行われていた。
神々はチーズの好みにうるさく、特別な製法のものや輸入物を好んだことで、チーズの取引市場としてアテネは知られた。チーズはお供え用のケーキにも用いられるなどもした。

『イーリアス』でもアレスの傷を治癒する様子をイチジク樹液によるレンネット凝固を比喩としてホメロスは用いている。それほどレンネット凝固は浸透していたということであり、各所で浸透していたと考えられる。オデュッセウスがチーズを捧げるシーンも出てくる。
日常の饗宴でもデザートやワインと共にチーズが供された。当時の食事は大麦粉のポリッジ(粥)やパン、ケーキ、豆類から成るシトスと呼ばれる質素な主食とオプソンと呼ばれる付け合せがあり、チーズや猟の獲物、野菜、酢漬けや魚などが食べられた。アゴラと呼ばれる広場にある市場で人々は食料を調達した。ギリシャは痩せた土地のため、小規模混合農業地で羊飼育とチーズが作られ、市場に出荷されて取引された。
ホメロスの著作には様々なチーズの話が出てくるが、重要なことはこの時代に固くて皮があり、長期熟成に耐えられ、摩り下ろして使う長期保存可能なチーズの製造技術が確立していたということである。

ギリシャ植民地となったシチリア産のチーズはBC3000年には作られ始めており、贅沢品として扱われた。黒海の魚、北部エーゲ海タソス島のワイン、ボイオティアのウナギ、アテネの蜂蜜・オリーブ・野菜・パン・ケーキ、シチリアのチーズだ。料理本も出て、料理家が地中海全域からシチリアに集まるくらい美食の島として知られた。摩り下ろして使うシチリアのチーズは儀式で用いられることはもちろん、徒競走優勝者に与えられるものの一つにも選ばれていた。

【わかったこと】
主食と付け合せが、今の感覚だと逆だなというところが発見だった。やはりメインは穀物で、それら以外はあくまでオプションだったということがこの位置づけでも分かる。
それと、とにかくチーズは、ギリシャ世界でも人々の舌を魅了したということがよくわかった。その味のみならず宗教儀式等を通じて人々の精神の中において「特別なもの」として認知され、それが伝統として広がったことも大きい。そしてこれらの美食文化をもたらしたことの背景が、ギリシャの鉄および人口増による資源不足(そもそもの土地が痩せていること)をきっかけとした交易網の発達による各地の産物の入手のしやすさなどが影響している。また「良いチーズを作れば高く売れる」ということで植民地間で競い合ったこともチーズ作りの技術を加速させたとも言えるだろう。
美食を求める人々の心、それを宗教等を用いて特別なものとして位置づけて独占的に楽しもうという支配層の思惑などなど、あんまり人間は太古から変わっていない。
否、たかだか数千年など最近の話。

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