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マンゴー、バナナ、ジュース。

こちらの記事を読んだあと、これは世界中のあらゆる乳児とそのケアをする大人の間で常に発生していることでは無いかとぼんやり考えた。

ケアする側が都合よく解釈し、いつしか無意識にコントロール下に置く。

ちょっと前、まだ娘③が「ママ」しか発語できなかった時の我が家の光景あるあるを例にしたい。

「ママー」と泣きながら父親の所へ行く。

ドライマンゴーが欲しい時だ。

「ママー」と泣きながら祖父の所へ行く。

バナナが欲しい時だ。

「ママー」と泣きながら祖母の所へ行く。

野菜ジュースが欲しい時だ。

言葉を扱って意思を伝えられない娘③にとって、「ママ」とは自分に必要なあらゆるケアを要求するための究極魔法だ。まぁ、主に食べ物を得るための魔法だが。

ただこの魔法の発語を向けられた大人は一様にまず「ママじゃないよー、ママはあっちだよー」と返答する。そのやりとりを眺めながら、「ママ」を「母親」という意味で娘は使っていないのに、いつまでも同じ返答をする大人は学習能力が無いのかな?と心の中で突っ込んでいた。

多分それは各人理解しているのだろう、ただ乳児を取り巻く最小社会の中で「あなたのケアの責任を負うべきなのはこの人(母親)だよ」と、刷り込んでいくのが常識だからそうしているのだ。

そうしているうちに、気がつくと過剰な負担がケア担当に集まって行くと共に、いつしかケア担当は子に対して多大なコントロール力を発揮するようになり、それが充足感となることもあるだろう。

子の方は自我が複雑化して構築されて行くうちに、それまでの慣習通りに(時に過剰で見当違いな)ケアを与えられ続け、気がつけば充足感のための道具にもなりかねない状況に違和感を覚えるが、コントロール下から脱出するのには苦労する。それは私自身の体験だ。

だからこそ私は、

「ママ(ドライマンゴー)」

「ママ(バナナ)」

「ママ(野菜ジュース)」

の呼びかけには逐一「それは私(ママ)じゃないよ」と答える、面倒な母親だ。でもおかげで娘③が次に覚えた発語はもちろん「マンゴー」「バナナ」「ジュース」だ。

これもまた、私が「都合良く」娘③をコントロールした成果になる。


注:障害者支援の文脈でのファシリテッド・コミニュケーションはもちろん、この力関係が周囲によりバレにくく、変化しづらく、半永久的に維持される可能性が高いのでもっと深刻だということは理解しています。



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