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もうひとつの入れ歯の話

かつて、私の記事で歯のないおじさんの話を書いたことがある。

そこで私は、入れ歯の話はまだあることを匂わせていた。今日はその時匂わせていた話をしようと思う。

私の大好きなレストランに『カナユニ』というフレンチレストランがある。名前の由来は「かなりユニーク」から取って”カナユニ”となった。オープンしてから50年以上も経っている元赤坂の老舗だ。銀座や麻布、六本木からこぞって洒落た遊び人達が足を運んだ伝説のお店だ。惜しくも2016年にその歴史に幕を閉じたものの、今では初代オーナーの息子さんが新カナユニを北青山にオープンしている。

元赤坂でのカナユニでは数え切れないくらいの思い出がある。そして、長い歴史を持つカナユニにも、数え切れないくらいの伝説が残っている。アメリカ禁酒時代にアル・カポネにお酒を出したことがあるバーテンダーの話や、盛り上がった客が結局朝までいて全員が床に寝てしまった折にスタッフは匍匐前進ほふくぜんしんをしながらモーニングコーヒーをお出したという話、臨機応変な接客を自慢していたカナユニで”たたみいわし”の注文が入りマスターが慌てて六本木まで自転車を走らせ買いに行った話等、枚挙に暇がない。

私はいつもこういった話を、ステージの合間の休憩時間に、まかないを食べながらマスターから聞いたのだ。背筋の伸びたとっても素敵な紳士だった。

今日の話は実際にカナユニで起こった数々の伝説の内のひとつである。

カナユニには様々なお客様が現れる。

その日は、予約で満席だった。
この日はたくさんのお客様がいらしてたので、隣り合うテーブルの椅子にはあまりゆとりがなかった。その中でステージから見る中央寄りの席に、ご家族の会食と思われる二組のグループが席についていた。二組のご家族はまったく別のグループであるが、テーブルは縦に並んでおり、それぞれのテーブルの端には長老と思われる男性が座っていた。そして長老達はお互い背中合わせに腰を下ろしていた。

デザートがサーブされ、お客様がコーヒーを飲み終わる頃だった。一組めの長老が席を立とうとすると、偶然にももう一組の長老も席を立とうとした。椅子と椅子の間にはゆとりがなかったため、どちらかが譲って席を立たねばならない。どうぞどうぞとお互い譲り合っている際、二人はささやかな言葉を交わした。

「今日は家族が私の古希のお祝いで食事をごちそうしてくれたんですよ」

「それは奇遇だ。私も家族が古希のお祝いだってんで連れてきてもらってね」

二人とも偶然、古希のお祝いでカナユニに来ていたわけだ。

老1「同じ古希なら、先の大戦ではどちらに」
老2「私は〇〇におりましてね」
老1「え? 〇〇に? 私も〇〇におりました!」
老2「なんと!では◎◎師団ですか」

お互い同日に古希のお祝いで食事に来て、しかも大戦中は同じ師団にいたとあって、二人は大いに盛り上がった。彼らは戦時中に顔見知りではなかったものの、お互い強いシンパシーを感じたようだった。ひとしきり言葉を交わし合い、そろそろ帰ろうという頃だった。

老1「こんな奇遇も何かの縁です。今日の記念に何かを交換しませんか」
老2「おお、そうですな。これもご縁。ぜひ交換しましょう」

ところが、老人の二人は記念として渡せるものは何一つ持っていなかった。この日に限って二人ともハンカチひとつも持っていなかったのだ。

どうしよう、何を渡そうとしばらく問答していたが、ついに二人は我々が持っているのはこれしかない、ということで二人は互いの入れ歯を交換することにした。

老1&2「これでは”同期の桜”ならぬ”同期の入れ歯”ですな!

これが、マスターが聞かせてくれたカナユニ伝説のひとつ『同期の入れ歯』の話である。マスターの話では、結構な確率で入れ歯の忘れ物も多かったそうだ。

#入れ歯はお互い装着して帰ったそうです

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