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素敵な紳士

楽しいことが好きなので、下記の企画に参加させていただいている。
楽しい人の元には楽しい人が集まる。つくづくそのことを実感している。読むのも楽しい。書くのも楽しい。読むのも楽しい。※大事なことなの二回言いました。

それでは、私の第二弾を投下する。


昔、山岳部の先輩が行きのバスの中で突然首をぶるぶるっと振ったので、どうしたのかと尋ねたら「今、山小屋の汚いトイレの中から汚物が生き物みたいに襲い掛かってくることを想像してしまった」と言うではないか。先輩は「そういうことってあるだろ?ありもしないことを想像して勝手に震えあがる、みたいな」と続けた。

確かに、私も同じように首を振って脳裏に浮かんだ嫌なイメージを振り払うことがある。

今の私で言えばそれは、ステージ中に付けまつ毛が取れる(だから私は決して付けまつ毛はしない)ことや、ステージ上でマーライオンみたいにキラキラしてしまうことだったりするが、実際にそんなことは起こったことがない。

それとは別に、予てから想像してはぶるぶると首を振ることの一つに”ドレスのファスナーが上がらない”ということがある。

私が定期的に出演していたフレンチレストランでは、初老のマスターを始めとする男性スタッフのみが働いていた。料理長も男性、バーテンダーも男性。若い、老けてるはあったが、とにかく全員男性だった。私は、このお店だけではファスナーが上がらないなんてことがあってはならない、と強く思っていた。

その日、私は”ちょっと頑張れば着られる”素敵なドレスを衣装に選んでいた。しかし、実際のその素敵なドレスはいつの間にか”ちょっとどころではない頑張り”が必要なものと化していて、私の身を包むのを断固として拒んだのだ。

困った…。

額から嫌な汗が流れる。背中も汗でしっとりしてきた。もう嫌だ。何もかも投げ出してお家に帰りたい。

見渡す限りみんな男性。その日の共演者もがっつりおじさん。ああ、誰にお手伝いをお願いすればいいのだろう。この中で一番爽やかにこの事態を受け止めてくれる人は誰だろう。

私は控室からそっとホールを覗いた。
ホール全体が見渡せる隅に、背筋良く立つ姿が眩しいマスターがそこにいた。マスターは70代の初老なのでここの男性の中では一番の大人だ。この方なら私のファスナーについても特に何か言及することなく、スッと格好よく整えてくれるのではないか。彼が見て見ぬふりの出来る大人だということを私は知っていた。

私は手招きをしてマスターを控室に呼び込んだ。
マスターは少し驚いた顔をしたものの、既に何かを察したようにさり気なく控室に入ってきた。

「あの、ファスナーがどうしても一人では上げられなくて」

マスターは「こういうことってよくあるんだよ」と言って、すぐに私の背中に回った。そして、少し難儀をしたものの、見事にファスナーが上がろうとするその時だった。

「私はね、本当はファスナーは下ろす方が得意なんだ。はい、出来た」

こう言ってマスターは私の背中をポンと軽く叩いた。そして、何事もなかったようにホールに戻っていった。ああ、粋な男というのはこういう人のことを言うのだろうなと思った。

その後日。
私はとあるミュージックサロンで大御所ベーシストと初共演の予定だった。私はそのベーシストのことはもちろん存じ上げていたが、彼は私のことを知らない。演奏前に必ずご挨拶をしなくては、と思いつつ控室で着替えをしていた。

そのドレスは確実に頑張らなくても着られるはずのドレスだったのだが、ファスナーの調子が一部悪いところがあって、ファスナーを上げ切るのはイチかバチかに賭けるという素敵なドレスだった。

その日、ファスナーは機嫌が悪く、どうやっても一人で上げ切ることは出来なかった。私は控室から出て、スタッフのいるカウンターへ向かった。しかし、まだ開店までだいぶ時間があるからなのか、男性スタッフはおろか女性スタッフもそこにはおらず、カウンターにひとりたたずむお洒落な初老の男性がいるだけだった。

既に何十分もファスナーと格闘していて汗ダラだった私は、もうこの人でいい!という思いでその男性に「すみません、手伝ってください!」と言って背中を向けた。男性は「おお、女性は大変だよね。よしよし、上げるよ。あ、ちょっと硬いね。いいね!肌に触れちゃうね、いいね!あはは!」とこの作業を心底楽しみながらファスナーを上げてくれた。

…これは堅気の人ではない。

ファスナーが上がったところで、私はくるりと振り返り

「ありがとうございました。初めまして。本日共演させていただきますボーカルのおぬきのりこです」

とご挨拶をした。
そう、切羽詰まった私はあろうことか”大御所”ベーシストにファスナーを上げさせていたのだ。しかし大御所ベーシストはこう返してくれた。

「こんな挨拶、初めてだけどね!いいね!」

後に、このやりとりはちょっとした伝説となった。


実話です。


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