「疲れた」に共感したくない。
「疲れた」と言う言葉に対して
「私も(俺も)疲れた」と返すことにモヤモヤするのは私だけだろうか。
そんな返しをされると
「私の方が疲れてる!」と心の中で思い、すり替えられたような、会話泥棒されたようなどうしようもない気持ちになる現象は、一体なんなのだろう。
時と場合によるのだろうけれど
日常の些細な会話で、こんな場面は多々ある。
仕事で辛いことがあった時の帰り道、私は走って帰る。
慰めて欲しいというか、1人でいることが耐えられない夜。
誰でもいいわけではなく、同じ時間を過ごしてきた彼の存在は、私に癒しを与えてくれることを知っているからだ。
だけど、おかえりと言う彼は、当たり前だけれど、いつだって明るく元気ではない。
こっちが拍子抜けするくらいテンションが低かったり、モゾモゾ布団に潜っていたりする。
そして、彼は「疲れている」と本当に身体が動かなくなってしまうので(スマホを触る指だけは止まることはないけれど)、慰めて欲しかった私の方が話を聞いて「そんなことがあったんだ、頑張ったね」と彼を慰めている。
ここで「私もしんどかった、疲れた」とは言わない。疲れた泥棒になるからだ。
けれど、無かったことにした私の「疲れた」はどこに行くんだろう。
そのようなことを考えていた時、
ダイエット中の私の体重が驚くほど増えていた。
食べ過ぎてしまったとかならば受け止めることが出来ただろう。
嫌々食事制限をしていた中で、ドカーンと増えていたので、これはなかなか落ち込んだ。
数字に直面し、まとわりつく脂肪がモゾモゾしてきて、どうしようもなく自分の体が嫌になった。
少し彼に当たったり、もう!!もう!!もう!!と鼻息を鳴らしたかと思えば、もうだめだ...私はもうこの醜い体をコントロールできない....と弱音を吐く。なんだかとても疲れた。
そんな私を見て、直前まで「疲れていた」であろう彼は声色を変え、私をあやすように「大丈夫だよ、コロリならできるよ」とか「食事制限すると一時的に体重がふえるんだよ」と慰めてくれた。
ああ、おんなじだ。
そう思った。
私だって相手の疲れたを泥棒することもあるじゃないか。
たぶん、お互いが−(マイナス)な時、一緒にいるからこそ、+(プラス)に持っていけるのではないかと思う。
それを私たちは無意識に知っている。
今はまだお互いに余裕がある二人暮らしが続いている。
いつか、こっちだって疲れてるんだからそれくらいやってよ!とか、そういう喧嘩をする日が来るかもしれない。
そういえば数学ではマイナス×マイナス=プラスではないか。喧嘩してぶつかって、プラスに持っていけることを信じたい。
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