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リアルとリアリティは、現実とファンタジーくらい違う。

昨年末、ふと思い立って「アウトレイジ」三部作のDVDを購入し一気観しました。

「アウトレイジ」に関わらず、北野映画はどれも配信で観ることができないのでDVDを久しぶりに買いましたが、最高でしたね。あの冷たく乾いた極道の世界に男のロマンを抱いてしまいます。

激しいドンパチとは一生縁がないと思いますが、こうした世界線が実在すると考えるといまの境遇に感謝せざるを得ません。2023年の僕は、大友の背中を追いかける一年にしたいと思います。

しかし一方で、昨今のヤクザ映画の潮流として外せないのは、「ヤクザと家族」や「すばらしき世界」を代表とする「ヤクザの生き辛さ」にフォーカスした物語とされています。これまた違う意味でヤクザの生き様がヒリヒリと描かれていて凄みを感じられる作品です。

任侠道を背負う暴力的で敵なしな存在として描かれていたヤクザ像が、暴対法の強化によって居場所を奪われ続けた結果、急速に社会的弱者になった感じでしょうか。

それはそれですごく現代のヤクザとしてリアリティがあっていいんですけどね。「ヤクザと家族」はものすごく心に刺さる物語でしたし。それでもやっぱり派手にドンパチやってたあの頃のヤクザ映画が好きだなって思います。(かつてのヤクザを礼賛しているわけではありません)

さて、僕はヤクザ映画が好きです。

ヤクザとの関わりは当然ながら一切ありません。それでも、ヤクザのリアリティを「ヤクザと家族」から感じ取りました。これってなんでだろうと、素朴な疑問として思ったのです。

ヤクザとの関わりがないので、ヤクザのリアルも当然知りません。知ってるのは、鈴木智彦さんのルポ『サカナとヤクザ』や東海テレビのドキュメンタリー「ヤクザと憲法」で見聞きする情報としてのヤクザの生きづらさだけ。

僕はこれらの情報を元に、「ヤクザにとって令和の時代は非常に生きづらくなってるんだ」と理解します。その理解のまま、「ヤクザと家族」や「すばらしき世界」などの映画を観ると、自分の理解しているヤクザ像にくっきりとした輪郭を与えてくれるかのように、どんどんヤクザのキャラクターイメージが強固なものになっていきます。

身寄りがなく、血縁よりも親分との盃を大切にし、親のために筋を通していけば行くほど苦しくなる。愛した女性とも会えず、日本社会からもどんどん爪弾きにされ、あまつさえ居場所がなくなっていく。あぁ、なんて哀しい生き様なのだろう……。映画を観ながら、思わず感情移入してしまい涙がこぼれます。

世の中のあらゆる情報は、特定の個人から語られる以上はどんなものにもフィクション的要素が必ず含まれていて、そのフィクションというものは、あくまで「語り手が見えている世界」の話であることがままあります。

僕が好きな北野映画で描かれるヤクザ像は、たしかに僕が強烈に想像(あるいは妄想)する「触れるものすべてを傷つける怖い存在」でした。僕の中で「そうあってほしい」ヤクザの姿ですね。

「リアル」は事実で現実だけど、「リアリティ」というのは「語り手が見えている世界」であり、「受け手が都合よく解釈する世界」でもある。そういう意味では、リアリティは限りなくファンタジーに近い。

人は、自分が信じたいものを信じ、自分は間違っていないんだと言いたいところがあります。だからこそ、エンタメ作品を観てリアリティを感じたら、一度俯瞰で物事を見る。それだけで、物語や現実世界における理解の解像度が上がるかもしれません。

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