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幸せの靴は実在する

仕事への復帰を目前にして、靴磨きを行いました。写真の靴は、7年前に購入した、Sutor Mantellassi(スートル・マンテラッシ)というブランドのもので、価格は10万円でした。

Sutorとはラテン語で「靴職人」の意味で、イタリアのフィレンツェ発祥の名門老舗ブランドですが、日本での入手はなかなか難しいようです。なお日本ではよく「ストール」と表記されていますが、ラテン語の発音に即せば「スートル」が正しいです。

さて、私が社会人新人時代、会社や仕事が自分に合っていないと思って日々しょげていたものですが、ある時ビルの窓ガラスに映ったダボダボのスーツに身を包んだ自分の姿があまりに見窄らしくて、せめて見た目くらいはしっかりしないと本当にダメになると思って、色々ファッション雑誌やら服装術の本やらを買って研究した時期がありました。

その時に見つけたスートル・マンテラッシというブランド名に惹かれて、それを扱っている靴屋を訪れたのですが、並んでいる靴の値段は基本的に10万円前後のものばかりで、新人の私には恐れ多くてすぐに店から逃げ出してしまったのでした。

あれから幾星霜。新人の頃から別の会社に移ってSE稼業に勤しんでいた私は、新人の頃とはまた別の行き詰まりを感じていて、日々しょげていたのですが、ある時、「まずは10万円の靴を買う。それからだ。」という一節が脳裏に浮かびました。

私の服装術は、落合正勝という服飾評論家の著書に影響されたものが大きいです。この人は一貫して「クラシックな装い」を最上のものとする主張であり、流行モノの服装に価値はないと断じています。また、服装に投資するのは靴→ネクタイ→ベルト→シャツ→スーツ→時計という優先順位が正しく、スーツや時計にいきなり高いものを買うのは素人と言わんばかりのことも書いていたりします。豊富な知識に裏付けされ、また元新聞記者だった経歴なのか非常に簡潔で洒脱な文章に私は魅了されていました。

まず10万円の靴を買えという主張も、落合氏が各書で再三述べるところによるもので、必ず履く人の意識が変わるとまでいいます。ちなみに、落合氏の本ではSutor Mantellassiの靴に言及していた箇所で「スートル」という表記をしていて、流石と思いました。

SE稼業を続けて、奨学金も返し終わり、それなりに蓄えはあったものの、大した趣味などなく、遊びもしておらず、彼女も居らず、どこか守りに入っているようで閉塞感をずっと感じていた私は、思い切って10万円の靴を買ってみることに決めました。

向かう店はもちろん、新卒の時に逃げ出したあの店です。佇まいはほぼ変わっておらず、高級な靴がずらりとディスプレイされていました。スートル・マンテラッシの靴もあり、上品に艶めいている茶色のストレートチップの靴が目に止まりました。

試着してみると、私の足を革がつるりと包み込み、指の圧迫感もなく、革靴なのにスニーカーよりも足裏に負担がかからず歩きやすいように感じ、大変に驚きました。どこか運命めいたものを感じて、他の店に行って比較検討とか一度家に帰ってクールダウンとか余計なことは考えずに、その場で購入を決断しました。

そして、この靴を履いて手入れをしていると、不思議なことに気分が上向いて色々なことに積極的になり、詳細は省きますが、ITコンサルタントへの転身を遂げ、結婚し、家を建てて、2児を授かるという現在の幸せへの契機となったのでした。

ドラクエで「幸せの靴」という、手に入れるのは非常に難しいが、履いて歩いているだけで経験値が貯まるというアイテムがありますが、まさか実際に存在するとは思いませんでした。

私の人生を変えた靴は、少し革がくたびれてきてはいますが、今も磨くと温かく光ってくれます。このまま、定年まで履き続けるつもりでいます。

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