欲しかった『当たり前』は、人から与えられたり認められたりすることではなく、本質的には自分が変わることだったんだ。
なんてことに、気がつきまして。
理解されたい愛
というのがあるなんて話を先日しました。
私は正しくそんなのを求めてた人です。
長らく秘密にしていた反動からか、オープンにしたらむしろすごく分かってほしいみたいな気持ちが膨れ上がったんですね。
それは周りにも伝わるんでしょうね、
あるときに
『理解してもらえるって贅沢だからね』
と、言われたことがありました。
目から鱗。
なるほど、そんな風に考えたことはなかった。
が、しかし。
確かに『理解』と言う行為には
するもされるもなかなかの労力を要する。
確かにそんな風に人を巻き込むのはとても贅沢なことなのかもしれません。
さらに勝手なのは
簡単には理解して欲しくない
と思っている自分がいることだ。
め、めんどくさっ!!
手っ取り早く理解をしてもらうには
その対象を簡単にすればよい。
でもそれはそのものの実際ではない。
だから簡単に理解して欲しくないなんて思ってしまう。
例えば、
セクシャルマイノリティ?
いや、普通っしょ?
そんなん気にしないよー!
という言葉。
世の中が普通に扱ってくれることを願っていたくせに、いざそんな風に扱われると、拍子抜けしたりする。
もっと、話を聞いてほしい、普通と片付けられたくないとすら思ってしまう。
不思議だね。
そして我儘だね。
どっちなんだ、と。
簡単簡単!普通普通!
と、捉えてもらうためには
実は世の中よりも、お前は普通ではない、と自分自身を脅迫し続けたその価値観自体を変えなくてはならないんだなって気がついて。
そしてそれは自分とは遠い価値観を受け入れることよりよっぽど複雑で難しいですね。
例えば見た目に関すること
あなたが、
太ってようが痩せていようが足が短かろうが長かろうが、肌が白かろうが黒かろうが、髪が多かろうが薄かろうが、
私は、気にしません。
でも、私は私自身の見た目が気になります。
そして周りからよく見られたいと思うのです。
でもきっと、周りは私の見た目よりずっと自分の見た目の方が気になるのかもしれません。
脱線しました。
まあ、つまりね。
実は変わらなきゃいけないのは外だ!
と、思いがちですが
一番の敵はやはり自分のなかにあるのだということです。
本当に当たり前を欲していた?
受け入れてほしいけど特別にしてほしいってのは、それこそ我儘だね。
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