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あるがままでいいんだよ、と若冲さんは言った
箱根の岡田美術館で開催中の『画遊人・若冲』展に行ってきた。
正月のドラマで伊藤若冲熱が高まり、さてどこかで本物を見られないだろうかと思っていたところ。
この美術展では、岡田美術館所蔵の若冲作品7点が全て展示される企画だって。なんてタイムリーなの!
若冲と、光琳・応挙・池大雅・蕪村などの企画展は3階。展示室の1室2室は、若冲前の京都画壇への入り口的な内容。
さて、いよいよ第3展示室へ。ここに若冲の画が揃っている。
まず、真っ先に思ったのは、
「うわ! …浮き出てる!?」
絵が、立体的に浮き出て見えた。
まだ、どの絵かもわからない、目がピントを合わせきる前の状態で、まずその立体感に驚いた。
一枚目の展示の『花卉雄鶏図』だった。
それから、『孔雀鳳凰図』、『梅花小禽図』、『雪中雄鶏図』。カラーはこの4点。
水墨画では『鶏に笠図』、『月に叭々鳥図』、『三十六歌仙図屏風』。
彩色画はどこまでも緻密微細、水墨画はいい意味でどこかとぼけて大胆且つゆるやか。
でもどちらも、筆の動きやカスレも全て計算しつくして気を配っているのがわかる。
特に彩色画なんか見ると、やっぱりこの人どこかブッとんだ人だったんだろうな、と思う。現代社会だと、社会不適合それがどーした、と開き直れなければ生きづらくなっちゃうタイプの人。
わたしが一番気持ちを惹かれたのは、『花卉雄鶏図』。の、鶏ではなく、水仙。
この絵は、地面の餌か虫かをついばむ鶏に、水仙と山茶花が配されている。
その水仙の葉の色合い、質感、自重で垂れる形、葉の先の枯れかかった茶色。
そうだ、水仙て確かにこうだ。まぎれもなく、これだ。
生きてそこにある、みたい。
これが、生命を描くという伊藤若冲の絵か。
生きてるから、画の中の世界が奥行きとして目に見えたのかな。だから、最初の印象が「浮き出てる」だったのかも。
もちろん、孔雀鳳凰も、鶏たちも、精緻で生き生きとして圧倒的だ。
けど、今の自分に最も印象が強く感じられたのが、まだ技を磨く途上ともいえる30代後半の頃に描いた、しかも鶏のほうでなく水仙の葉だというのが、我ながら興味深い。
どちらかといえばサブの水仙にも、メインの鶏にも、若冲さんは等しく慈愛のまなざしを向け、命を見いだして描いたのだろうけど。
水仙の葉の変色や、山茶花の葉の虫食いや、鶏の尾羽が破れて隙間ができてるところとか、そういうものまでまっすぐに描く若冲さんの世界の捉えかた。
それを感じ、おのが価値観を省みる機会になった。
わたしはやっぱりどこか、綺麗なもの、理想的なものを求めてしまって、それに合わないもの、外れるものに目をつむったり、ないものにしようとしたりしてしまう。
「よくないもの」を無視し排除して、自分の価値観に合うように「美化」した世界を見ようとする癖がある。
けれど、若冲は、そういうものもまるごと愛したんじゃないかな。
衰えだったり弱った姿だったり、一般的には好ましくないとされる部分にも、うつくしさを見いだし、いとおしんだんじゃないかな。
自分にはよいと思えないものに蓋をしてなかったことにしたくなるのは、ありのままを受け入れられない、ある種の歪みなのかもしれない。
まこと理想的な姿以外にも、うつくしさはあるよ。
だから、ありのままで、大丈夫。
そんなふうに、若冲さんが言ってるみたい。
色々な面でそう思えたほうが、なんだか楽になれて、生きやすくなりそうだ。
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