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「退院」してから専業非常勤へ

 博士論文を提出しないまま、わたしは大学院博士後期課程を出た。それから数年の間は専業非常勤(大学などの非常勤講師のみで暮らす人)をやっていた。引き続き自己紹介として、どのように生きていたかを思い出しながらお話ししたい。

非常勤の授業がスタート

 大学院博士後期課程を3年で「退院」し、非常勤講師の身となった。どこかに研究員として籍を置くこともなく、ただただ非常勤として授業をする立場だ。最初の年からさっそく週3コマ、自分の出身校の授業と、学会で知り合った他大学の院出身の先輩から引き継いだ専門学校の授業をそれぞれ担当した。
 授業を担当すること自体が初めてだったので、とにかく授業準備に取り組んだ。一週間のうち、授業以外の多くの時間を授業準備にあてていたと思う。学部の授業は教材の選定とレジュメの用意に大幅な時間をかけ、毎週毎週が自転車操業状態だった。専門学校のほうは一年間の授業の資料一式を譲り受けることができ、それをもとに予習を進めればよかったが、それでもまる一日はかかっていた気がする。
 もう一つ、学生への対応も初めてに近い経験だった。院生のときTAや留学生チューターをしていたので、学生の課題やレポート作成のサポート、授業運営の手伝いは経験していた。しかし、授業の主担当はそういう「サブ」の立場とはぜんぜん違う。楽しかったのは、授業が終わったあとに話しかけに来てくれる学生とのおしゃべりや質問・応答。こういう時間を生きがいに、がんばって出勤していた。
 一方で、人数はほんの少しだが、ナメてくる学生もいた。年齢が大きく変わらず、またこちらの経験不足などから「先生」オーラを出せていなかったことが理由だろう。でもそれだけでなく、「女」の教員を下に見てくる態度もひしひしと感じた。しかもわたしはあまり威厳(?)を出せるタイプではなく、良くいえば親しみやすい教員だったと思うが、ああ、距離が近いとこういうこともあるんだな……と自信をなくしたものだった。

借金返済生活もスタート

 そんな生活で大きくのしかかってきたのが、大学院博士前期課程から受けていた日本学生支援機構の奨学金(貸与)の返済だった。ありがたいことに一部返還免除をいただいていたが、返済額のほうが大きい。前回の記事(→★)で書いたように、博士課程に在籍し続け「院生」のままでいるという選択をしたかったのは、たいした収入もなく生活基盤がままならないまま奨学金の返済が始まることが怖かったからだ。大学院生のなかには、わたしより年上かつキャリアも長いが、返還猶予のために院に残り続けると言っていた人もいた。奨学金は借金だということをしみじみと感じた。
 とはいっても、毎月の返還(というか借金返済)だけは途中でストップすることのないようにする、というのが目標だった。そのため日々、大学院在籍中のアルバイトなどで作った貯金を少しずつ崩しながら生活していった。それだけでは食べていけないので、本当にありがたいことに、最初の頃は実家からの援助もしてもらっていた。
 お金の問題がつねになんとなく頭の中にあるのは、かなりしんどい。毎日・毎月の収入の目処を立て、各種税金や国民年金・国民健康保険料を払い、借金を返し、翌年の仕事(授業コマ)を得られるようできるだけ誠意をもって働く……。そんななかで研究、というか博論を書かなければならないのだ。 二重のプレッシャーだ。もちろん就活もしなければならないので三重だ。しんどすぎる(また別に書けたらと思いますが、この業界って公募書類を用意するのだけでも膨大に時間が取られて、ほんとつらいですよね。。。)。

非常勤の担当が増えてきた

 専業非常勤2年目には、持ちコマが3つ増えた。このときようやく、自分の専門そのものをテーマにした授業ができるようになった。おかげで授業が楽しい。働いて稼ぐ、という実感が出てきたときだった。またもはりきって授業準備に時間をかけるので、うっかりすると論文執筆が後回しになってしまう。
 同時に、最初に受け持った出身大学の授業も2年目(最後)になった。せっかく非常勤のコマが増えたのに、貴重な一つが来年はなくなってしまう。漠然としていた未来への不安がいよいよリアルになってきた。なので、「今年度中に博論を提出する」を目標にした。出身者の権利でもらっていた授業を終わらせ、博論も出し、スッキリして本当に「卒業」する。長いことのんびりしていたわたしだが、タイムリミットがリアルに感じられ、ようやく(!)本腰を入れて執筆にとりかかった。

まずは博士論文提出

 とにかく優先順位第一位は博士論文だ。わたしがの場合は、博士後期課程を退学したあと3年以内に博士論文審査を受け合格すれば「甲号(課程博士)」を取得することができた。いちおう在学中に予備審査は合格していたので、あとは論文本体を出すだけ。
 非常勤と同時進行で、近隣在住の同業者たちとの研究会にも参加するようになった。ポスドクの先輩方や常勤職の先生方からは、とにかく早く博論を出しなさいと、研究会のたびに激励(叱咤も)されていた。
 在学中、主査の先生は事あるごとに「完璧さを求めるな」と院生たちに指導していた。学会や研究会でご一緒した複数の先生も、「博論はゴールではなく、これからのためのスタートラインだから」と何度もおっしゃっていた。本当の勝負は論文提出してからだ、と。それぞれの言葉を自分に言い聞かせつつ、博論仮提出(本提出日から遡って3ヶ月前)の日に向けて、とにかく追い込んで書き続けた。
 大型の論文を書くためには集中力も体力もめちゃくちゃ必要だ。ほかのことをしていて時間がなくなると、ますます焦って書けなくなってしまう。他人とくらべて自分の駄目さを実感してしまうので、同業者に会うのもちょっと嫌になったくらいだった。
 とはいえ、ここまできたらもう書くしかない。その頃はちょうど夏季休暇中だったので、完全に昼夜逆転した生活を送っていた。深夜から朝の9時くらいまで書いて、寝て、夕方近くに起きてまた書く。夜遅くから明け方まで、Skypeで同業の友人とおしゃべりしながら書くこともあった。おかげでようやく、後期の授業が始まる直前の仮提出締め切り日に、滑り込んで論文を提出することができた。
 余談だが、日中は暑いし外で遊ぶ用事もないし、外出といえば食料を求めるくらいだったのでほとんど紫外線を浴びていなかったはずだが、それまでの人生でもっとも肌が荒れてシミが増えた。ストレスってやっぱり影響するんですね……。

変化は一気に突然に

 とりあえず仮提出を済ませたので、次は主査・副査の先生方からコメントをいただいて修正をする。その間、わたしの人生のターニングポイントがあった。それは、学部生時代から10年以上暮らしたマンションから引っ越したことだ。しかもずっと一人暮らしだったのに、シェアハウス生活へ。家族から距離を置きたくて一人暮らしができる大学に行ったくらいなのに、なんと、今さら同じ屋根の下で複数人と共同生活することになるとは。しかも引っ越しのあとすぐ、博論の本提出日が待っている。というか引っ越し作業だってそもそも大変だ。ちゃんと引っ越せるのか?暮らせるのか?そして出せるのか???
 結論から言えば、このときのシェアハウス生活で、わたしのその後の人生が大きく変化した。密度の濃い、貴重な時間を過ごすことができたし、文字通り命をつなぐことができた。
 かなり長くなりそうなので、次の記事でぜひ。

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