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目から鱗が落ちる


「目から鱗が落ちる」ことを考えていて、思い込みの強さの素人哲学的考察にまで行き着きました。いちおう、思い込みの変化についての考察と相成りし候ゆえ、テーマにも沿っているかと思い(変化球ですが)、投稿させていただきます。読者諸賢の一考を促せることができたなら幸いです。

「目から鱗が落ちる」考


 自分は何も変わらない。変化に乏しい。生き方や、その姿勢を、180度変えることは困難なようで、実は容易だ。僕は、だから、その現象については自分は変わったと言わない。そしてそれは自分にはしばしば起こる。自分の否定と肯定が入れ替わっているだけだ。ところが、このことについて人はしばしば「目から鱗が落ちる」という。目から鱗が落ちるくらいの衝撃の度合いは、出来るだけ、180度に近い、物事が逆さまになっているくらいのことが多い。右側から見ていたことが、左側から見ることによって、つまりパースペクティブがそのまんま広がり、今までの見方からの自分の一方向性に気づく。それの真逆は、自分の立場からはあまりにも遠く感じるので、それの衝撃のようなものに目を開かれて、その時まさに「目から鱗が落ちる」。インパクトの強さは、表と裏の入れ替わりに全てがかかっている。人が10度くらいに傾くことをもって、「目から鱗が落ちる」とは言い難い。
 しかし僕は、この、「10度くらいの傾斜」が、本質的な変化だと思うのである。そしてそれはなかなか起きない。

「思い込み」が変わるということもそうだ。思い込んでいることとは、つまり、自分が入れ込んで考えてしまった行き先に安住すること。それの変化とは、この精神の安住の寓喩から解くなら、そこから思いを込める前にまで、後ろへ戻るということ。これは、なかなか、自分の本質的変化とは言い難い。どうせ、自分はまた、思いを込めた時にかの安住先を夢見るのだから。自分の居心地の良い場所というのは、決まっているのだ。
 この喩えをさらに展開してみよう。だとするなら、正しい「思い込み」の変化とは、思いを込める際に行き先を複数確保することである。これは、常に意識をして訓練すれば、二つ三つは、出来そうである。巣穴の部屋掘りのようなものだろう。でも、そうするには時間がかかるし、大いなる矛盾を抱える結果を招きそうである。しかし、おそらく、こういう矛盾は、誉むべきことに違いない。なぜなら、思い込みの悪癖を解消するに越したことはないからだ。
 行き先を二つ三つ用意できるならそれに越したことはないのだろうけれど、気をつけなければならないのは、これが他人に知られた時に、あいつはどうも考えがぶれている、調子のいい奴だ、などと思われかねないことだ。自分としては考え尽くして二つ三つに思いを込めているんですがねえ、と言ってもバレてしまっては後の祭りである。ここは、上手に逃れるタイミングを常に図っていなければならない。
 それにしても思い込みの強い人に辟易したことはないだろうか。周りに必ずいるはずだし、ある分野のある行為に限っては、自分もそうかもしれない、と、ちらと思ったりもする。誰しもがこだわりというものを持っているのだ。その強さが、生きる強さに直結することだってあるはずだ。
 とはいえ、そういう思い込みの強さの持ち主が、思い込みの変化を迎えたとして、せいぜい、逆方向へ駆けるくらいなものなのである。それは、上の考察から推察される、人の、哀しいサガなのかもしれない。そして今日も今日とて、「目から鱗が落ちた」体験が巷に溢れ出る。僕は、大変なニヒリストで恐縮ではあるが、そういった体験談を目にしたり聞いたりした際には、つい、ニヤっと笑ってしまうのだ。

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