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大著嫌い 【エッセィ】

大著と呼ばれる本で話題を攫い、挑戦的で挑発的な「知の告発」本は、膨大なページ数を引っ提げて盲目な彷徨える羊たちをどこかへ導こうとする訳だけれど、そうした大著がしばしば、「事実の羅列」で、「事実」認定を受けたであろう「論文」にいかに紐付けするかに躍起になっているように見えることがある。ついにはどこまでコピペできるか競争のようにみえる。ひどい場合はそうである。事実を集めて醸成した意見が書かれてあるなら話は別である。気になるのは事実の集合が一つの答えに収斂させるために存在し、時にはそれをさも数列の証明かのように見せかけることまである、ということ。それは帰納法の効用を用いているだけのこと。またそういう本が、学んだ気にさせてくれるので一定の満足と仮の知識を与えてくれて世間一般の評価は下がらず(下げ止まりの地点が生まれるのだ)、それどころか本を読むことは知識を得ること、などと、それが第一義に据えられるタイプの本当の意味での羊の読者たちからは賞賛の嵐になるのに決まっているので大著は恭しく重さを増し続ける。ぼくはその手の大著に疑いの目を向ける。事実として認定された論文のその一義的な読みを、一義的であるがゆえに疑っているからである。またそれは結局のところ、体系化に対する根本的な私のファイティングポーズなだけかもしれないが(ちょっと私はアドルノ的な気分なのだ、体系化という思考操作が道具的理性のふるまいであることに嫌気を表明したアドルノの否定論法の)。論文は一個一個が「それなりの事実」にとどまり続ける。その集積のみにとどまるのなら、良く調べましたね、という感想以上の感想はぼくからは出てこないし、それは実際、ただの事実の堆積としてとどまり続けるだろう。ぼくが読みたいのはそこからの発酵の具合なのである。というわけで「大著」の香りがした場合にぼくの評価はそれだけで一段階下がりがちだ。

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