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鞄を運ぶ

 荷物は最小限に詰め込む。運ぶモノは限られる。ルーティンが大切となる。忘れることのないように。入れ忘れること。入れ過ぎること。運ぶモノが決まっていない、当日にずれ込んだ。それを踏まえて前日に精査しておけるものはチェックしておく。当日に精査するのは場違いである。当日は、思いつきで、「入れる」「入れない」を決めてはならない。当日に生じた入れなければならないモノを、隙間に詰め込む。当日に入れるのは「入れなければならない」モノに限られるのだ。そのスペースを設けるためにも(ないに越した事はないのだが)、前日までに最小限に納めることが不可欠となる。そして日頃のルーティンがものを言う。普段通りに事を運ぶこと。モノを詰めること。ルーティンはイレギュラーを最小限に抑える働きをしてくれるのだ。当日の楽しみは、当日にとっておかねばならない。
 夜が来た。いつもの夜だ。まだ浅い。これから深くなる前に、いつものように出掛けるとしよう。いつもの鞄で、今日のモノを。
 鞄に何を詰めるかを考えるのは生における喜びの確かな一つ。自分が出かけるために必要モノたち。鞄の中で喜びに震えるのが私には感じられた。
 いつものように。
 自分にフィットするモノを見つめ直す作業は素晴らしい。今日にずれ込んだモノは、新鮮なあれは、虹色に輝くあれは、大事に、隙間に詰め込んだ。ぴたりとはまるくらいの量であることが私の喜びを爆発させる。完璧な按配で怖くなるくらいだ。
 
 ああ、そんな日の夜だったのに。いつもの親しげな、しんしんとふけきった夜だったのに。

 夜の散歩で気をつけなければならないのはただ一つ。
「人と出会ってはいけない」
 私はいつものように細心の注意を払って夜の道を歩んだ。幸いにしてT市の私の散歩道は人影はまったくといってもいいくらいにない。コンビニエンスストアが乱立し始めた時には人工の光が私のルートにも差し込んできたが、大概は撤退した。生き残ったいくつかの店舗は最近は24時を過ぎて閉店することが多くなった。それくらいの人通りということだ。
 いつもの川沿いを軽やかに歩く。川は痩せ細っていていまにも蒸発してしまいかねないほどの糸のような水の流れ。その水と水音が辛うじて一本に繋いでいる。月明かりが川の水に反射してキラキラと光る。すぐに舗装道路が途切れ途切れになり、鬱蒼とした森の中へと入っていくこととなる。警戒は解かないが、この辺りまでくるともう私のフィールドである。
 満月の月明かりが煌々と照らした夜だった。

 この夜、私は出会ってしまった。出会ってはいけない相手に。

 だいたい、気配が感じらなかった。この私が、というのは自尊心が強過ぎるだろうか? しかし、人間のごときは、経験上必ず避けていけたのだ。察する音がある。感じる体温がある。息を聴く。皮膚から漏れ出る匂いを嗅ぐ。
 ある短編小説の、麗しき画家の女性を思い出した。そうすると私に対応するのは詩人さんのほうで、そのつもりでやりとりをすれば私もまだサマになっていたのかもしれない。
 三島由紀夫の、ある、ごく短い小説。そこに表された女性を、私は「彼女」から声をかけられた時に連想をした。
 しかし彼女からなんと声をかけられたのだろう? その時は人間の言葉ではなかったのかもしれない。ただ、女性の声の質、高い音で、穏やかな声質のように感じた。振り向くと川沿いに女性が座っているように見えた。椅子に腰掛けるように見えたのはなぜだろう。足を組んでいるようにも思えた。妖精の類なら別に草の葉に座っていてもおかしくはないのかもしれない。
 彼女は燐光を放っていて、明らかにこの世のものじゃなかった。別に彼女がキャンパスをしつらえて絵を描いているわけではない、鵞ペンでもってインクをいじっているわけでもない。ましてや鵞ペンの羽で唇をなぞって思案しているふうでもない。しかし彼女はどことなく画家のように見えた。超自然的であり過ぎて、芸術そのものを身に纏っていたのかも知れなかった。
 薄目をあけて目の玉がこちらを見据えているのは妖艶であった。私が振り向くと彼女の目線は私の鞄に据えられた。
「お前、いいモノを持っているね」
 そう、はっきりと聞こえた。私はおそらく無意識に鞄んを抱き抱えて後退りした。
「出すんだ。その、端っこのやつを。テラテラと光る、そのうまそうなやつを」
 ああ、私の「あれ」を狙っていたのか。そうするとこやつは。
 私は「あれ」を取り出した。月明かりに油が対応して確かにテラテラと光っていた。
 その時だ。彼女の目が吊り上がり、口は大きく耳まで裂け、口からいくつもの牙が見えたのは。
 笑ったのだ。
 私の「あれ」をふんだくると風のように消えていった。川の方へ降りていったか。私の胸はどきんどきんと波打っていて、脅威が去ったことを教えてくれる川のせせらぎの音がはっきり聞こえてくるまで、そこに立ちすくんでしまった。
 おそらく狐の通力による変化であったのだろう。どうやら狐と狼の合いの子のやつ、もう、何百年も前に途絶えたと聞いていたが、まさかこんな風にして出会うとは。
 この日から私はこのルートを通ることを止めてしまった。人間の作った良いルートであって、夜の散歩にふさわしい快適なルートだったのだが、くわばらくわばら、もう二度と通るまい。

 私のような狸の出稼ぎの者には、やはりそれらしいルートを通るべきらしい。

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