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パーティの終わりに

パーティの終わりに


by グレアム・グリーン



 ピーター・モートンはびくっとして目を覚ますと、明け方の弱い日が差す方向に顔をむけた。雨が窓ガラスを叩いている。一月五日だった。

 ピーターは、水の中でロウソクが細々と燃えている終夜灯を載せたテーブル越しに、もう一つのベッドを見やった。フランシス・モートンがまだ眠っていたので、ピーターもまた横になったが、目は弟から離さなかった。目の前にいるのが自分だと空想するのは楽しい。同じ色の髪の毛とうりふたつの目元、口の形も同じだし頬の線もそっくりだ。だが、じきにそんな空想にも飽きて、思いはまた、今日という日が特別な、「ある理由」に返っていった。一月五日。ミセス・ヘン=ファルコンがこの前、子供たちのためにパーティを開いてから、一年もたっただなんて信じられない。

 フランシスが急に寝返りをうって仰向けになったので、腕が顔にかぶさって、口がすっぽりと覆われてしまった。ピーターの動悸が早くなる。いまや楽しい気分はどこかへ消えて、不安が胸を満たしていた。体を起こし、テーブル越しに弟に声をかけた。「起きろよ」

フランシスの肩がぴくりとし、目を固く閉じたまま、握り拳を空に向かって振り回した。ピーター・モートンは、急に部屋全体が暗くなったような気がした。大きな鳥が獲物めがけて舞い降りてきたようなイメージに襲われたのだ。もう一度、大きな声で呼んだ。「起きろよ」するとふたたび、銀色の光と窓を打つ雨音の世界が戻ってきた。

 フランシスが目をこすっている。「呼んだ?」

「おっかない夢、見てただろ」ピーターが言った。これまでの経験から、彼はふたりがどれだけちがうことを考えていても、互いに感応し合うことを知っていた。だが彼の方が、わずか数分の差ではあっても上だった。弟がいまだ苦痛と闇の中でもがいているあいだに浴びた余分の光は、彼に自立心を植え付け、さまざまなことに怯えがちな弟を庇ってやろうとする本能を目ざめさせていたのだった。

「ぼく、自分が死んだ夢を見た」フランシスが言った。

「どんな夢?」ピーターがたずねる。

「覚えてない」フランシスは答えた。

「おまえは大きな鳥の夢を見たんだ」

「そうか」

 ふたりは黙ったままベッドに横になって、顔を見合わせた。同じ緑色の目、先をきゅっとつまんだような同じ形の鼻、同じやり方で引き結んだ口元、大人びたあごが向きあった。一月五日だ、とピーターはまた考えた。頭の中に情景が浮かんでは消えていく。ケーキ、勝ったらもらえる賞品。卵を載せて走るスプーン競争、たらいに張った水に浮かべたリンゴを突き刺すゲーム、目隠し鬼。

「ぼく、行きたくない」不意にフランシスが言った。「きっとジョイスが来るよ……メイベル・ウォーレンも」
パーティにその子たちが来ると思うと、フランシスはゾッとした。彼より年上の子供たちである。ジョイスは十一歳、メイベル・ウォーレンは十三歳。男のような大股に合わせて、長いお下げがバカにしたように揺れる。卵をもたもたと運んでいる自分のことを、いかにもバカにしたように見下すのが女の子であることにも、自尊心は傷つけられた。おまけに去年は……。真っ赤になったフランシスはピーターから顔を背けた。

「どうかしたのか」ピーターが聞いた。

「ううん、なんでもない。調子が悪いみたいなんだ。風邪を引いたんだよ。パーティには行かない方がいいんじゃないかな」

 ピーターはいぶかった。「だけどさ、フランシス、そんなにひどい風邪なの」

「パーティに行ったらきっと風邪がひどくなる。きっと死んじゃう」

「じゃ、行くのをよさなきゃ」ピーターは言い切った。この単純な言葉で、あらゆる難題をすべて乗り切ろうと覚悟を決めたのである。何もかもピーターにまかせておけばいいんだ、と思うと、フランシスはほっとして気持が楽になった。だが、兄に感謝はしていても、顔は背けたままだった。恥ずかしいことを思い出したせいで、まだ頬にのぼった血が引いてなかったのである。

去年、明かりを消した家の中でかくれんぼをしているときに、不意にメイベル・ウォーレンに手をかけられて、悲鳴をあげてしまったのだ。近寄ってくるのが聞こえなかった。女の子はみんなそうなんだ。靴が鳴ることもないし、床板を踏む音もさせない。猫みたいに足を忍ばせて歩き回る。

 乳母がお湯を持って部屋に入ってきたときには、フランシスは一切をピーターにまかせてしまって、安心して横になっていた。ピーターは言った。「ねえ、フランシスは風邪をひいちゃったんだ」

 背が高く、堅苦しい乳母は、金だらいにタオルを広げながら振り向きもしないで言った。「洗濯物は明日まで戻って来ないのよ。フランシスにはあなたがハンカチを貸してあげなさいね」

「だけどね、ナニー」ピーターは頼んでみた。「フランシスはベッドに寝てた方がいいんじゃないかな」

「今朝はあなたとわたしで散歩に連れていってあげればいいわ」と乳母が言った。「ばい菌も風に吹き飛ばされてしまうわよ。さあ、ふたりとも、起きてちょうだい」

「役に立てなくてごめん」とピーターは言った。「だけどベッドに入ってたらいいさ。ぼくからママに言ってやるから。調子が悪くて起きられないって」

だが運命に逆らうなど、フランシスの手に余ることだった。もしこのままベッドにいれば、大人たちがやってきて、胸をトントン叩いたり、体温計を口の中に突っこんだりするだろう。そしたらすぐに仮病もばれてしまう。確かに、気分が悪いのは本当だった。胃のあたりがからっぽになってムカムカするような感じがしたし、動悸も速くなっていた。だが、それもひとえに恐怖、パーティの恐怖、暗闇の中、ピーターとも離れ、闇を引き裂く終夜灯のあかりもない中で、ひとりきり隠れていなければならないという恐怖から来ていることが、フランシスにはよくわかっていた。

「ううん、ぼく、起きる」そう言ったあと、急にせっぱつまった調子で「でもね、ミセス・ヘン=ファルコンのパーティには行かないんだ。聖書に誓って行かない」これでまちがいなく万事うまくいく、と思った。神様はこんな厳粛な誓いを破ることなど、お許しにならないにちがいない。何か手だてを示してくださるにちがいない。まだ、午前中いっぱいと、午後も四時まで時間はある。草の霜も溶けてない、こんなに朝早いうちから心配しなくてもいい。何か起こるに決まってる。ハサミかナイフで手を切るとか、脚を折るとか、本当にひどい風邪になるかもしれない。とにかく神様が何とかしてくださるはずだ。

 彼は神様にそれほどまでに信頼を置いていたので、朝食の席で母親が「フランシス、あなたが風邪を引いたって聞いたんだけど」と言い出したときも、たいしたことないよ、と受け流すことができた。

「今日の夕方、パーティがあるから」と母親は皮肉な調子で続けた。「あなた、たいしたことはないなんて言うんでしょう」

この言葉にはフランシスも驚き、母親はここまで何も気がついていないのかと思うとすっかり気持をくじかれて、仕方なくほほえんでみせたのだった。

 彼の幸福な気持は、朝の散歩に出たときにジョイスに会っていなければ、もっと長く続いただろう。彼は乳母とふたりきりだった。というのも、ピーターはウサギの檻を仕上げるために、薪小屋に行っていたからだ。もしピーターが一緒なら、それほど気にする必要もなかった。乳母は、ピーターの乳母でもあったのだから。だがいまは、まるでひとりで散歩にも行けない彼のために、乳母がわざわざついてきているように見える。たったふたつ年上のジョイスが、ひとりきりでいるというのに。

 ジョイスはお下げを揺らしながら大股で近寄ってきた。フランシスをあざ笑うかのようにちらりと見やると、これみよがしな態度で乳母に話しかけた。「こんにちは、ナニーさん。夕方のパーティにフランシスを連れて行くの? メイベルとわたしも行くのよ」それからふたりから離れ、どんなに遠くて寂しい道だってわたしならひとりで行けるのよ、と言わんばかりに、メイベル・ウォーレンの家がある方角に歩いて行った。

「しっかりしたお嬢さんね」乳母は言った。だがフランシスは何も言わなかった。ふたたび胸がどきどきし始め、パーティの時間がまもなくやってくるのを感じていたのだ。神様はぼくのために何もしてくださってないのに、時間がどんどん過ぎていく。

 時間は飛ぶように過ぎ去って、フランシスは逃れる手だてのひとつも考え出せなければ、やがて来る試練に備えて覚悟を決める暇さえ与えてもらえなかった。何一つ用意のないまま、冷たい風を避けようとコートの襟を立て、玄関先の階段に立っている自分に気がついたときには、パニックに襲われそうになった。乳母の懐中電灯が、暗がりの中、短い尾を引いていく。背後では明かりが玄関ホールを照らし、召使いが食卓の用意をしている音が聞こえていた。お父さんとお母さんは二人だけで食事をするんだ。

家の中に駆け込んで、ぼくはパーティに行かない、絶対いやだ、と母親に向かって叫びたいという思いが耐えがたいまでにふくらみ、そうする寸前までいった。誰もぼくを行かせることなんてできない。自分がその決定的な言葉を告げるのが、いつも彼の心と両親とを隔てている、無知の壁を破る言葉が、耳に聞こえさえした。
「行くのが怖いんだ。行かないよ。絶対にいやだ。あの人たちはぼくに暗い中に隠れろって言うんだ。ぼくは暗闇が怖いんだよ。思いっきり叫んでやる」

 母親の驚いた顔が目に浮かぶ。だがそれに続くのは、自信たっぷりの冷たい声の、大人がよくやる例の切り返しにちがいない。「馬鹿なこと言わないで。行かなきゃダメですよ。招待してくださったんだから」

 それでも、誰もぼくを行かせることなんてできないんだ。乳母は霜でおおわれた草をざくざくと踏んで門の方へ歩いていくが、階段のところでためらうフランシスには、そのことがわかっていた。だからぼくはこう言ってやる。「病気だって言えばいいでしょう? 行きたくないんだ。暗いところが怖いんだから」

そしたらお母さんはこう言うだろう。「おかしな子ね。暗いところなんて怖いことはひとつもありませんよ」だが、フランシスにはそんなせりふは嘘っぱちだとわかっていた。大人たちは、死は怖れるようなものではないと言いながら、ほんとうのところは目を背けて考えないようにしているじゃないか。ぼくをパーティに行かせることなんてできない。「叫んでやる。叫んでやる」

「フランシス、さあいらっしゃい」ぼうっと明るい芝生の向こうから乳母の声が聞こえてくる。目をやると、懐中電灯の小さな黄色い光の輪が、木や茂みを丸く照らし出していた。

「わかった」絶望的な思いで彼は返事をした。彼は、戻って自分の秘密を打ち明け、母親に対して心を開くことができなかった。それも、最後の手段、ミセス・ヘン=ファルコンに懇願するという手段がまだ残っていたからだ。彼は玄関ホールをゆっくり進みながら、そうするんだ、と自分を励ましていた。ぼくはとても小さいのに、あの人はあんなに大きいのだから。

心臓はドキドキしていたが、声が震えないように懸命にこらえ、細心の注意を払いながら言った。「こんばんは、ヘン=ファルコンさん。パーティに招待してくださって、どうもありがとうございました」こわばった顔を夫人の豊かな胸のあたりに向け、礼儀正しい決まり文句を、ひからびた老人がするように口にした。

ふたごである彼は、多くの面で一人っ子と同じだった。ピーターと話をするのは、鏡の中の自分に向かって話しかけるようなものだ。その姿は鏡に傷があるせいで、少しだけ実物とちがっていた。彼自身の姿というより、こうありたいと願う姿、暗闇や、知らない人の足音や、夕闇のたれこめる庭を飛び回るコウモリに、得体の知れない恐ろしさを感じることのない者の姿だった。

「かわいいわねえ」ミセス・ヘン=ファルコンは上の空でそう言うと、手を振って、ヒヨコか何かのように子供たちを追い立て、自分が準備したお楽しみのプログラムを開始した。卵を載せたスプーン競争、二人三脚、リンゴ突き刺し競争、どのゲームもフランシスはみじめな思いをしただけだ。ゲームの合間の何もしなくて良いときだけ、メイベル・ウォーレンのバカにしたような視線からできるだけ離れた部屋の隅に立って、刻々と迫る暗闇の恐怖から逃れるすべを考えることができた。

お茶の時間が終わるまでは、何も恐ろしいことなどないことはわかっていた。そうしてコリン・ヘン=ファルコンのバースデーケーキに立てられた、十本のロウソクが投げかける黄色い光の輪の中にすわっているときに初めて、自分が怖れていることがまもなく始まることをはっきりと意識した。ジョイスのかん高い声がテーブルの向こうから聞こえてきた。「お茶が終わったら暗くして、かくれんぼをやるのね」

「それはやめようよ」ピーターがフランシスの窮地に陥った顔にじっと目をやったまま、そう言った。「わざわざそんなことやらなくても、毎年やってるんだからいいじゃないか」

「だけどプログラムには書いてあるもの」メイベル・ウォーレンが大声で言い返した。「わたし、自分で見たもの。ヘン=ファルコンさんの後ろから、ちゃんと見たんだから。五時にお茶、五時四十五分から六時半まで、明かりを消してかくれんぼ、って。プログラムに全部書いてあったもん」

 ピーターは言い返さなかった。ミセス・ヘン=ファルコンのプログラムに書いてあるのなら、自分が何を言おうが、それをひっくり返すことなんてできやしない。彼はケーキをもう一切れねだって、紅茶をちびちびとすすった。かくれんぼを十五分でも遅らせることができれば、少なくともフランシスに数分でも猶予を与えることができれば、うまい手を考えられるかもしれない。だが、それさえもかなわなかった。子供たちはすでに三々五々、テーブルを離れていたからだった。これで三つ目の策も失敗に終わった。また大きな鳥が羽を広げ、弟の顔に影を落とすのが見えたような気がした。だが、胸の中で、馬鹿なことを考えるんじゃない、と自分をしかりつけ、大人たちが繰りかえす「暗いところなんて何も怖いことなんてないんだよ」という言葉を改めて自分に言いきかせながら、ケーキを食べ終えた。テーブルに最後まで残っていたふたごが一緒に玄関ホールへ行くと、子供たちを集めていたミセス・ヘン=ファルコンのしびれを切らしたような目が、ふたりを迎えた。

「さあ、明かりを消して、かくれんぼをしましょう」

 ピーターが弟を見やると、口を固く引き結んでいる。彼にはフランシスが、パーティの初めからこの瞬間を怖れていたことも、なんとか勇気をだしてそれに立ちむかおうとしていたことも、いまやその努力を放棄してしまったことも理解できた。いまは、どうかかくれんぼから逃れられる狡知を授けてください、と祈っているところにちがいない。ほかの子供たちはみんな興奮して歓声を上げているというのに。「わあ、やろうよ」「二組に分かれなきゃ」「家の中で入っちゃいけない部屋はどこかありますか」「安全地帯は作るんですか」

「ぼく……」フランシス・モートンは大きな胸のあたりに目をすえて、ミセス・ヘン=ファルコンの方へ近寄りながら言った。「遊んでもしょうがないと思うんです。うちのナニーがもうすぐ迎えにくるから」

「あら、だけど乳母さんなら待ってくれますよ、フランシス」ミセス・ヘン=ファルコンは、手を叩いて子供たちを呼び戻そうとしながら言った。子供たちは早くも、上の階へ行こうと、蜘蛛の子を散らすように広い階段を上がっていこうとしている。「あなたのお母さんも、気になんてなさらないわよ」

 フランシスの狡知もこれが限界だった。よくよく考え抜いたあげくの言い訳が通じないはずがないと思っていたのだ。いまとなっては彼に言えるのは「ぼく、かくれんぼはしない方がいいと思います」ということだけだったのだが、そのしゃべり方がまた、子供たちがきらいぬいているものだった。ほらあの調子だ、まったくどれだけ偉そうなんだ?だが、フランシスはそんなに怖れていても、無表情のまま、じっとそこに立って待っていた。

兄には弟の恐怖がわかった、というより、恐怖が落とす影が彼の脳に及んできたのだ。その瞬間、明かりが消えてたったひとり取り残された闇の中に、忍びやかな、誰のものとも知れない足音が、四方八方から押し寄せてくるような気がして、ピーターは恐怖のあまり、叫び出しそうになった。やがて彼は、この恐怖は自分自身のものではなく、弟のものであることを思い出した。

彼は衝動的にミセス・ヘン=ファルコンに頼みこんだ。「お願いです。フランシスにかくれんぼをやらせないでください。暗い中だとフランシスはどきどきしちゃうんです」ピーターはまちがった言葉を使ってしまった。子供が六人、歌い始めたのである。「弱虫、毛虫、はさんで捨てろ」うつろな、ぱっと開いたひまわりのような顔がいくつも、フランシス・モートンに向かって、拷問のようにさいなんだ。

 兄の方には目を向けないで、フランシスは言った。「もちろんぼくも一緒にやります。怖くなんかないんだ。だけどちょっと思ったのは……」

だが、自分を苦しめた子供たちは、もはや彼のことなど頭になかった。子供たちはミセス・ヘン=ファルコンを取り囲んで、甲高い声であれこれ聞いたり、ああした方がいい、こうした方がいい、と提案したりに余念がない。
「ええ、家の中ならどこに隠れてもいいのよ。明かりは全部消します。そうねえ、棚の中に隠れてもいいわ。できるだけじっとしてるんですよ。安全地帯は作りません」

 ピーターはそこから離れて、自分が弟を何とか助けようとしてしでかしたぶざまな行動に恥じ入ったまま、たったひとりで立っていた。彼の脳の隅に、フランシスの憤慨、口出ししたことへの憤りが忍び込んでくるのを感じる。子供たちが数人、階段を駆け上がって行ったかと思うと、上の階の明かりがを消えた。コウモリが羽を広げて下りてきたかのように、闇が玄関ホールにたれこめ、そのまますっぽりと覆った。使用人たちがホールの壁際の明かりを消していったので、子供たちは中央のシャンデリアの明かりの下に集まった。コウモリたちもまた、翼を張り出してしてあたりを丸く取り囲み、明かりが消えるのを待っている。

「あんたとフランシスは隠れる方よ」背の高い女の子が声をかけた瞬間、明かりが消え、まるで冷たいすきま風が吹いていくようなスーッ、スーッという忍び足の音が、四隅に散っていき、足下の絨毯がそれに合わせてかすかに震えた。

「フランシスはどこにいる?」彼は考えた。「一緒にいれば、いろんな音がしたって、少しは怖くなくなるだろう」“いろんな音”というのは、静寂を覆う膜のようなものだった。ゆるい羽目板がキーキー鳴る音、戸棚を注意深く閉じる音、磨いた柱に指先をすうっとすべらす音。

 ピーターは誰もいなくなった暗い床の真ん中に立ちつくし、耳をそばだてるのではなく、弟がいる場所の気配が脳に入ってくるのを待った。だがフランシスは両手で耳を押さえ、目を意味もなく固く閉じて、うずくまっていた。麻痺した頭は何も受けつけず、周囲の緊張感だけが、暗闇を縫って伝わってくる。

 そのとき、「行くよ」と叫ぶ声がした。大声に不意をつかれ、弟の自制心も木っ端みじんにうち砕かれたかと思って、ピーター・モートンは恐怖で跳び上がった。だが、それは彼自身の恐怖感とはちがう。同じ恐怖といっても、弟が心底おののいているのに対し、ピーターのそれは、相手を思いやるがゆえの感情に過ぎなかったから、理性が恐怖に曇ることはなかった。

「もしぼくがフランシスだったらどこに隠れるだろう」
フランシスでこそなかったが、少なくともピーターは彼の鏡だったので、即座に答えがわかった。「書斎のドアの左側にある樫の本棚と革のソファの間だ」
ふたごの間では、いわゆるテレパシーなどという用語は必要なかった。母胎の中でずっと一緒、離ればなれになることも不可能な状態で過ごしていたのだから。

 ピーター・モートンは忍び足でフランシスが隠れている場所に歩いていった。二度三度と床板が鳴る。暗闇の中をこそこそと探し回っている鬼たちに出くわしたくなかったので、彼は腰をかがめて靴ひもを解いた。靴ひもの先端が床に当たって金属的な音を立て、耳ざとい誰かの足音が近づいてきた。だが、そのときにはピーターはもう靴下だけになっていたので、こんなときでさえなければ、鬼をひそかに笑っているところだったかもしれない。脱ぎ捨てた靴に誰かがつまずき、心臓がどきんとしたが、彼は物音ひとつ立てなかった。ピーター・モートンが歩くたび、床は音を吸い込んでいく。

 靴下はだしで彼は静かに、目指す場所に迷わず進んでいった。壁がすぐそばまで迫っていることを、本能的に感じた。手を延ばすと、指先が弟の顔にふれた。

 フランシスは悲鳴をあげはしなかったが、自分の心臓が跳ね上がったので、ピーターにもフランシスの恐怖の一部が伝わってきた。「大丈夫」彼はそうささやくと、うずくまっている体を手探りで降りていき、固く握っているこぶしをとらえた。「ぼくだけだ。一緒にいてやるからな」

もう一方の手もぎゅっと握ってやり、自分が口にした言葉がささやき声の滝となって落ちていくのに耳を澄ませた。手がピーターの頭のすぐ横の本棚に伸びてきて、たとえ自分がここにいても、フランシスの恐怖はどうにもならないことを悟った。もしかしたら、少しはましになって、ちょっとぐらいはがまんしやすくなったかもしれないけど――そうだったらいいんだけど、と彼は思った――依然としてそれはあった。だがそれは、フランシスの恐怖であって、ピーター自身が味わっているのではなかった。彼にとって、闇は単に光のない状態であるのに過ぎなかった。伸びてくる手も、よく知っている子の手だった。見つかるのをしんぼう強く待っていさえすればよかったのだ。

 彼はもう何も言わなかった。フランシスと彼は、体と体をふれあわせることで、完璧に理解しあっていたからだ。口でしゃべるよりもすばやく、つないだ手と手を通して、言葉を介在させない思考そのものが伝わる。彼には弟の感情の流れをすべて感じ取ることができた。突然ふれられたせいで、恐怖のあまりに息も停まるほどの衝撃を受けたことも、いまでも恐怖が心臓の鼓動のように規則正しく脈動していることも。ピーター・モートンは懸命に念じた。「ぼくがここにいる。怖がることなんてない。もうすぐ明かりがつくんだ。人が動く音なんて怖くない。ただのジョイス、ただのメイベル・ウォーレンなんだよ」

大丈夫だ、という思いを爆弾のように投下し続けたが、恐怖がいぜんとして続いていることははっきりとわかった。「みんなひそひそ声で話してる。もうぼくらを探すのに飽きてきたんだ。じき、明かりがつく。ぼくらは勝ったんだよ。だからもう怖くないんだ。あれは階段にいる誰かだよ。たぶん、ミセス・ヘン=ファルコンじゃないかな。聞いてごらんよ、みんな明かりを手探りしてる」

足音がカーペットを進み、いくつもの手が壁をかすめた。カーテンがさっと開き、ドアの取っ手がカチッと鳴る。棚の戸が開いた。彼らが隠れている頭上で本が一冊倒れた。
「ただのジョイスだよ。ただのメイベル・ウォーレンさ。ただのミセス・ヘン=ファルコンだ」安心させようという気持をだんだん強くしながら送っているうちに、シャンデリアがパッとついた。まるでサクラやリンゴの花が一気に開いたかのように。

 子供たちの上げる歓声が明るい部屋に響く。
「ピーターはどこ?」「二階はもう探した?」「フランシスはどこだろう」
子供たちの声は、ミセス・ヘン=ファルコンの上げた悲鳴の前に立ち消えになった。

だが、フランシス・モートンが壁に身を預け、兄が手をふれたときの体勢のまま動かなくなっているのに気がついたのは、彼女が最初ではなかった。ピーターは、固くつないだ手をにぎったまま、涙ひとつ流すではなく、深い悲しみを感じながらも、どこか腑に落ちない気持でいた。弟が死んだからというだけではない。彼の頭はまだ、この矛盾を説明できるほど大人になっていなかったので、ぼんやりとした自己憐憫を感じながら不思議がるだけだった。どうして弟の恐怖の鼓動はいまも続いているのだろう。フランシスはいま、大人たちからいつも聞かされた、あの場所へ行ってしまったのではないのだろうか。怖れも、……闇もない場所へ行ったのでは。





The End

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