失恋文庫に対する第三者的理解-フィクションとSNSの相関関係における相乗効果と特色あるキレの良い感情の生々しさに対する自己解釈

はじめに

 今回門外漢の私がこのような形の文章(感想文とも言えないようななにか)を書くことが本当に大丈夫なのか、様々な各位にご迷惑をお掛けしないのかどうなのかということに対して非常に迷ったのですが、直接アウトプットするのが様々な創作者に対するリスペクトまたは意義であると昨今(特にV界隈にどっぷりハマって)感じましたので、乱雑無章ではありますが、私なりの理解として置いておくことにいたします。拙い文章ではありますが、文章量の多いオタクの早口考察ツイートだと思ってお付き合いいただければ幸いです。

 事の発端の半年前の去年末のコミックマーケット97にて「ラノベ読み合同誌」にてロゴ制作に携わったことです。そこの関連で旧来の友人である夏鎖先生からC98に販売され翌日に再販されたこの本を購入させて(正確に言うと確保して)頂きました。まったく接点はわたしからすると微々たるものなのですが、この本が成立された過程や環境が非常に秀逸で面白く、コンテンツの制作意図の蒐集が性癖の人間にとってこれほど興味深いものはないとおもい、今回書かせていただきました。所謂「感想」とは程遠いので、純粋な感想を求める方は、友人である夏鎖先生が書かれた下記URLのnoteを閲覧していただくことをおすすめいたします。

1.SNSにおける自己イメージの投影と虚構のはざま

さて、私は最近面白い本を長い間読んでいました。それは近年NHKでたびたび特集されていた「欲望の時代の哲学」という番組に関連したNHK出版から発刊された新書である「マルクスガブリエル 欲望の時代を哲学する」https://amzn.to/2Fa8KSyです。現在二巻(II)まで連載されており、その中でSNSに対して最新の哲学という観点からのお話がたくさん含まれておりました。私はもとより様々なネットのコンテンツの根源の構造に関しての興味があったのでずっと何度も読み返しておりました。

 そのなかでSNSの利用価値の本質についての言及があったのですが、SNSは「理想の自己イメージを投影する」というものです。確かに我々はしばしそういった行為をやります。もちろん私もそうです。「欲望の時代」ではその「理想」が他人のミラーリングを引き起こし、その拡大解釈が他人との大きなずれを多数の共有と言う手段において巻き込んで(つまりはbuzz)、生じさせるがために現実の政治・経済・時事問題などの分野においては意見の相違によって民主主義の危機を生じさせると言う風に続く(つまりはツイッターやFB自体がそういった問題に対して現実世界に影響をさせるわけではないから)のですが、では視点を変えてこれをエンターテインメントの観点から置いた時、様々な追体験を共有させられるのかもしれない、とふと考えたのです。(逆に言えば現実世界ではない元々虚構=フィクションのエンターテインメントの世界であれば上記の意見の相違が相乗効果を生み出すのではないか、という仮説、オタクで言えば「解釈一致」などの発言に代表されるフィクションに対する侃々諤々な「自己解釈」を巡る議論と自己投影を代表される感情の起伏から生み出される「面白さ」)

2.ミーム的な環境性と自己との投影性ーー「感情」の生々しさに対する自己解釈

https://togetter.com/li/1364000?page=3 こちらのtogetterや失恋文庫本稿の序文によると「ある一定のミーム的文章」が発端であることが見受けられます。 

 本作品群を読んでいて思ったのが「ある種の一つ一つの物語に対する感情の生々しさ」が読み進むうえで非常によく表現なされていると感じました。 

 私がこの生々しさを理解するにあたって、思い出した本がありました。東浩紀先生の「ゲーム的リアリズムの誕生」です。本著は正に環境や社会的側面など対してライトノベルやゲーム等を理解した本なのですが、本文中でライトノベルの本質をこう表現しました。

 「私たちはここで、ライトノベルあるいは『ライトノベル的な小説』の本質を、作品の内部(物語)でも、外部(流通)にでもなく、作品と作品のあいだに広がる想像力の環境(キャラクターのデータベース)にあると考えてみよう。言い換えれば、ライトノベルを、キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説と定義してみよう。」東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」 『講談社現代新書』2007年https://amzn.to/3acJLt3

 さて、ここで失恋文庫をミームから派生した追体験の作品群として置いた時、上記の引用でいう本質を見るときにデータベースにおける「環境」が一体どこに置かれているのか考えてみましょう。SNSと本作品の関係性が見えてきます。つまり本作品が、作者あるいは読者の追体験の想像力の環境から派生した時、ある種のSNSが生み出したズレと『失恋』という一方向性の存在する行為によって、奇妙な同一性を見出すことが出来ます。失恋と言うものが環境の装置として置いた時に自己投影に対するミラーリングがSNS的な「理想」を引き起こすことができるということです。そしてその追体験こそがミームとの親和性(つまり小説を読むという場面においては読者と作者との、あるいはtwitterではツイート主とRTなどの行為との)を引き起こすことでより読者側はその作者側が描いた「感情」の追体験を新鮮なものとして受け入れることが出来る(1.で述べた理想の自己イメージを投影するという行為 つまり自己イメージに対する「ズレ」を物語を追うことに従って文章内で感情を想起させる場面において自分の中で読んだときに再解釈することができるーー失恋そのものもこの文章作品内ではある種の「ズレ」として表現されている、そこに環境の装置として機能する)わけです。

 上記文章を読むと成立過程を知った上で読み進めなければ一連の環境性が働かないように読めてしまいますがそんなことは全くなく、一連のミーム文脈を知らない人間であっても、アンソロジーで多種多様な先生方が様々な視点での場を設け、物語を連作させているがために「構文」をある種作品内に内包することによってリアルさを引き起こす(「構文」がSNS的な感情の生々しさを本作品群内である種ミーム性を連想ゲーム的に読者側に想起させていく)ことができたのではないかと私は解釈をしました。

おわりに

 本稿はいわゆる「感想」とは違った視点から取り組みましたが、これらは単にHinamonzya自身が読んだ中で「クソデカ感情」になったのでそれをこいつぁスゲエやと思って自己解釈した結果であるので、本当に各方面の方々に対し怪電波を垂れ流してしまって申し訳が立たないのですが、それだけ感銘を受けたので今回書かせていただきました。また発行一年後にこの文章を書いているのは全く意図はありませんが、もし続編が出るようでしたら是非買わせていただきたいと考えておりますので宜しくお願いいたします。

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=529538(購入ページ)



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