「私ならできる」の悪

ばっかじゃないの
と、思うことがまぁまぁ起きている。

その言葉の裏には、呆れ、怒り、もどかしさ…というような気持ちがあるのだけど、そこに

「私ならそんなことしない」
なんなら
「私ならもっと上手くできるのに」
という考えが隠れていたりする。

例えば、学校で起こる悲しいニュースに、
なんでそうなったの。
どうしてこうしてくれないの。

そこにも【私ならできる】がある。

当然ながら、その【私】が当事者になった時そう簡単にはできないことがわかる。

今年の夏の終わり
システム思考のワークショップ「ビールゲーム」に参加した。

これがまさにこのことを体現していた。
そこまで難しいゲームじゃないので、おそらく誰もが『私なら上手くやれる』『仲間をサポートできる』と思っていたと思う。

けれど結果どうなったかというと、状況は悪化し、しかもその悪化に私が存分に加担していたのだ。

もちろん悪意はない。
むしろ貢献したかったのに。

【私ならもっとうまくできるのに】
その気持ちを持つと見えなくなってしまうことが多い。

そして状況を悪化させる。

ちなみに『私なら助けられる』も『私なら彼を変えられる』も傲慢だ。

かといって、変革を諦め何もするな、ではなく。

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