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創発の意図的な運用 ー 解明された創発のメカニズム


まえがき


近年の企業活動において、構成員個々人の創造性の開発、チームで創発を生み出し合う関係性が重要なものだという認知は進んでいる。

ところが、創発というプロセスがいかなるものなのか、どうすれば創発を促すことができるのかについての探求は社会で十分に行われていない。

そのような半ば神秘的なプロセスとも見做されている創発というプロセスを解明して誰でも扱えるようにするというのがこの記事の主眼である。

数回に分けて私は創発とは何かについて掘り下げて、皆さんが創発を意図的に運用できるような道しるべを作りたいと思う。

これまで5年に及び、大手企業幹部、ベンチャー企業CXO、ターンアラウンドマネジャー、医師、弁護士、芸術家、社会起業家などにコーチングを提供する中で認識するに至った創発のメカニズムを開示していこう。

創発とは何か

創発を定義する

私の創発の概念の意味は多岐にわたる複雑なものなのだが、初回の記事においては特に創発の全体像を示すことに注力したい。

創発は最も大まかに述べるのであれば、「差異」「接続」「拡張」という要素を主要な概念として含んでいる。それぞれの概念の意味はおいおい深掘りしていくが、まずはこれら主要3概念を元にした創発の概念を提示しておきたい。

創発とは、複数の人間が言語を交わし合い、互いの概念の「差異」を発見し、それらを「接続」することで知を「拡張」する行為である。

これが皆さんに提示する創発の最も端的な定義だ。

複数回にわたり私の記事を読んでもらえれば、この定義を深く理解することができ、さらに意図的に運用することができるようになるだろう。しかしその理解にはいくつかのステップを踏む必要がある。まずはこの創発の定義について詳しく吟味して、皆さんの理解を促進したい。

差異を発見すること

創発は、複数の人間が言語を通じてコミュニケーションを取ることで、互いが同一テーマに対して持っている異なる概念をあぶり出すことによって生じていく。

したがって、創発というプロセスにおいて、複数の人間が互いの認識に差異を見出すことは極めて重要だ。各個人が持つ概念や知識には必ず何らかの差異が存在し、それぞれの独自の経験や視点に基づいて言葉の意味は捉えられている。複数名が絡む創発の第一ステップは差異を捉えることなのだ。

例えば子育て中の両親が子供を塾に通わせるかどうかについて話し合っているとしよう。父親は「まだ小学生なのだから塾に通わせる必要はない」と考えており、母親は「小学生のうちに塾に通わせるべきだ」と考えているとしよう。

後にも詳しく述べるつもりだが、私が差異の概念として捉えているのは、父母の間で生じている塾に通わせるか否かという具体的レイヤーでの差異を意味しない。私がここで差異を捉えるレイヤーとはより抽象度の高いものである。例えばそれは価値観信念体系と呼ばれるものだ。

例えば先の例でいえば父親は「子供は偏差値など画一的な指標に縛られる人生ではなく、より自分の個性を瑞々しく発揮することでこそ幸せな人生を送ることができるのだ」という信念体系を持っていたとする。他方で母親は「子供は社会適応の通過儀礼として学歴社会を順調に歩んでいくことでかえって人生における選択の自由度を獲得することができ、結果的にはより自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ることができるのだ」と考えているとしよう。

ここまでの差異が明確になることで、父母それぞれの「子供の幸せ」を巡るある程度抽象度の高い差異が明らかになる。実はこの父母における「子供の幸せ」の概念は、最終的に望んでいるゴールが似通っていることが分かる。両者とも「自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ること」を望んでいることが明らかになる。では差異はどこにあるのか。それは最終的に望むゴールに至るためのプロセスにおける価値判断、信念体系である。

父母の思想における差異は以下のように整理することができる。両者は子供が「自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ること」を共に望んでいるが、父親は小学校時代という”今”の時間をまさに個性を瑞々しく発揮する場所として捉えていて、幸せな人生を送る舞台の一つと捉えている。幸せな人生は最終的なゴールでありながら、子供時代、さらには”今”という瞬間にまで織り込まれてしかるべき要素なのだと捉えている。

対して母親は異なる時間性を持っている。「自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ること」を人生総体として味わうためには、その基盤として社会に適合する能力やステイタスが必要だと彼女は洞察している。人生総体として幸せであるためには、一貫して「個性を瑞々しく発揮すること」が重要なわけではなく、そのような体験を最大化するためには、「個性を瑞々しく発揮すること」ができない時間・時代というものを経由することもまた、人生においては必要なのだという捉え方をしている。

このようなレベルまで両者の価値観・信念体系を掘り下げることで初めて、創発において意味のある差異が発見されることになる。子供の教育についてあれこれ言い争った経験のある夫婦であれば実感するだろうが、「塾に通わせるかどうか」「中学受験をさせるかどうか」という事柄の良し悪しに関して意見がぶつかった際、両者が納得できる解決策が生まれてくることはまれで、大抵はお互いの主張が平行線で交わされることに終始する。

創発につなげるためには事柄の良し悪しに関する差異ではなく、より深いレイヤー、互いの信念体系・価値観に根差している差異を捉えることが重要なのだと指摘しておこう。なぜそれが重要なのか?信念体系・価値観に根差している差異は、論理的に考えて是非を問うことができないから重要なのだ。夫婦喧嘩が延々と続くとき、「どちらの意見が正しいのか」を表層的なレベルで議論し続けることになりがちだが、それは終わりのない神学論争になりがちだ。

だが、信念体系・価値観に根差している差異は原理的に正誤判定に馴染まないものだ。先の例で父親は「小学校時代という”今”の時間をまさに個性を瑞々しく発揮する場所として捉えていて、幸せな人生を送る舞台の一つと捉えて」いた。対して母親は「幸せな人生体験を最大化するためには、個性を瑞々しく発揮することができない時間・時代というものを甘受して通過儀礼を経由することも必要なのだ」と考えた。ここまでの深度で互いの価値観・信念体系が開陳された時、それは単純な正誤判定に馴染むものではなく、よくよく考えば互いの意見に傾聴に値する価値があるのだということを気づくことができる(この”気づく”感度を持てることも創発の重要な要件ではあるのだが)。そのような認識に至った時にはじめて、この夫婦間の差異は、何か新しいアイデアを生む契機として働きだすのである。

これが差異の発見の大まかな概要だ。ただ差異の概念は別記事でもう少し突っ込んで吟味する必要がある。差異を発見するには様々な前提条件が必要となるし、そのステップはもっと精妙に理解しなければならない。今回は差異の初期的な吟味の締めくくりとして、私が定義する差異の概念を示すにとどめておこう。

差異とは、本来は境界のない世界に境界が引かれ、それによって新たな概念が浮き出るように表出し、それによって世界に多彩さが生じている様である。

次回以降にこの言葉の意味するところを詳解していきたい。その記事を読めば、皆さんも概念の差異を捉えることがかなり容易になるだろう。

差異を接続すること

さて、上述のように価値観・信念体系のレイヤーで互いの差異が発見された後に、次なるプロセスとして「接続」という事態が発生する。

異なる概念や視点を持つ二人、あるいはもっと多くの人々が言語でもって交流し、互いの考え方や知識を結びつけることで、新たなつながりや洞察が生まれていくこと。これを私は接続と呼んでいる。

接続は、異なる概念を共通の尺度において位置づけて比較衡量したり、相互に関連付け、統合するプロセスを指す。この接続によって、個々の概念や知識が結びつき、新たなアイデアや洞察が創造され、より包括的な理解や知識が生まれる瞬間が訪れるのだ。

具体例で接続を深く理解してもらおう。先ほどの父母の例で接続がどのように起きうるか。この父母は互いに「子供が自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ること」を望んでおきながら、その体験の時間性において異なる信念体系を持っていた。父は”今”を重要視すべきだと無意識に捉えていて、母は未来含む人生総体の経験として捉えていた。

この2人がいまや互いの差異は時間性にあることに気づいたわけだ。ここまでの差異に気づいた後には(ある程度の度量や信頼関係を前提とすれば)大抵の場合は共感という事態が起きる。

例えば父の側は

「確かにそうだ。自分は”今”の子供の生活の満足感しか念頭になかったが、確かに君の言う通り、”今”の生活の満足感に耽溺することだけでは人生総体としての幸せが果たされ得ないという考え方は傾聴に値する。自分は君が考える未来という時間性が盲点になっていたと思う。そこを含めて吟味すべきなのだと気づいた。」

と述べるかもしれない。対して母の側は

「共感してくれてありがとう。私こそ気づきがあったよ。自分は”未来”の子供の幸せに視点を合わせるあまり、”今”の子供の生活の満足感を過度に抑圧する可能性があるという点を見逃していたかもしれない。私の考えは重要だと思うけれど、”今”の生活の満足感を過度に抑圧してしまえば人生総体としての幸せを実現する上で本末転倒になりかねないと感じた。」

と述べるかもしれない。

このような言葉を交わし合った二人には、その考え方に明確な差異があるにもかかわらず、共感が育まれる。この共感が、接続を推し進めるのりしろになるのだ。このように、接続という事態の第一ステップは共感となる。互いに差異のある概念に対して共感し合う関係が基盤として形成されなければ、互いの概念を接続する工程は進まないのだ。

では共感の後、接続はどのように進行するのか。詳しい説明は次回以降とするとして、概要だけ述べておこう。

接続において共感というステップの後に起こる事態は互いの概念の化合だ。接続においては、互いに共感するに至った差異を伴う概念同士が化学反応し、新たな展開を生み出していく。このプロセスを私が化合と呼ぶのは、そのプロセスが概念を「変容」させるものであり、新たな概念を「創造」する「非連続な展開」を伴うものと捉えているからである。化合の対義概念としては折衷という言葉を当て込むことができるが、これは私の定義では創発の下位概念としての接続ではない。

どういうことか、子育ての具体例でみていこう。より理解を深めてもらうためにまずは折衷の事例について説明したい。先ほどの例の続きの展開でいえば

「お互いの意見を踏まえると、未来の子供の幸せも大事だし、いまの生活の満足感も大事だ。それを両立できるようなバランスを見出そう」

このような合意が夫婦間で形成されるケースは、私の定義では折衷と捉える。これは創発のプロセスではない。創発のプロセスはより有機的な様相を呈するのだ。パターンは無数にありえるが、以下の事例を示そう。

「お互いの意見を表出したときに、新しい問いが生まれた。我々は互いに『子供が自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ること』を望んでいて、そのために今を大事にするか、未来に視点を向けるかについて差異があった。でもハタと気づいたが、そもそも『自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生』とはいかなるものなのかについて、我々は互いに話し合ったことがあるだろうか。あるいは子供とそのような話をしたり、意図的に関わったことがあるだろうか。そもそも個性を表現することで幸せになるとはどういうことなのか、子供がその可能性を認知できるために親としてどう関わるか、より深く考えたいと思った。」

例えばこのようなものである。大抵の接続は、より深い問いを生み出すわけだが、この問いは二人の意見の折衷案では決してない。二人の価値観・信念体系が有機的に絡み合うことで創出されたより深くて、より本質的で、より豊かな問いが生まれる。接続においてはこのような問いの創造が起きる。

これが接続というプロセスの大まかな概要だ。ただ接続の概念も、差異と同じく別記事でもう少し突っ込んで吟味する必要がある。その予告として私が定義する接続の概念を示すにとどめておこう。

接続とは、差異の発見によって生まれた共感を基盤にし、互いの概念が化合され、新たな展開が生まれ出てくる喜びを伴うプロセスである。

次回以降にこの言葉の意味するところを詳解していきたい。その記事を読めば、皆さんも接続がかなり容易になるだろう。

接続を通じて拡張すること

創発の工程の締めくくりは「拡張」だ。創発の過程では互いの概念の差異が発見され、それら概念の「接続」を通じてより豊が問いが生まれる。そこから次の展開として、知識や理解、アイデアが「拡張」されるのである。

まず拡張とは概念の膨張である。先の例でいえば、夫婦が意見を交わしていたテーマは「子供を塾に通わせるかどうか」というものだった。しかし、差異の発見、差異の接続を通して問いは「子供が『自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生』とはいかなるものなのか」というものに変容した。

前者の問いに対する回答として展開されていく先は「塾に行かせる」「塾に行かせない」の二択にほぼ収斂される。ただ後者となると回答はそのような単純なものではなくなる。

問いは「個性とは何か」「幸せとは何か」「親とは何か」「受験勉強は個性を抑圧するものなのか」という根本的なものに展開されうるし、それに対する答えは無限に想定されるだろう。このように接続の後に起こる拡張においては、問いの膨張と回答の膨張が同時に起こっていく。問いのパターンと回答のパターンのバリュエーションが増えるということは、創発の大きな特徴なのである。

拡張のプロセスでは概念の細分化も起きる。概念が細かい部分や要素に様々に展開されることによって、問いが膨張しつつもより詳細に明確化され、さまざまな要素や側面が明らかになる。これにより、より具体的な創発が可能になるのだ。

例えば上述の問いで夫婦間で特に「受験勉強は個性を抑圧するものなのか」がフォーカスされたとしよう。この問いは受験勉強の内実によるのかもしれない。どの程度の偏差値の学校を目指すのか?どのような校風の学校を選ぶのか?どのような方針の塾を選ぶのか?個性の抑圧にあまり影響のない科目はあるのか?このように問いはより細分化され、具体的に扱いやすくなっていく。拡張というプロセスはこのような細分化を含むのだ。細分化がなければ、たとえ意味のある差異を見出したとしても、対話は空理空論になってしまい、実効性のある創発は起こらないものだ。

拡張のプロセスの締めくくりは「多様化」だ。これは工程というよりも膨張・細分化の結果として起きる事態に過ぎないとも捉えられる。

拡張(膨張・細分化)によって、問いや答えの切り口は多様な要素や階層、バリエーションを持つに至る。それが多様化の意味だ。それは端的に、二人の間に豊かな選択肢を与えることになる。互いの概念の差異が明らかになる前にはなかった選択肢がものすごく多様な形で眼前に広がるのだ。二人はその多様化された概念に基づいて、また言葉を交わし合う。交わし合った言葉から差異を発見する。そうして創発のループは無限に回り続け、最後にはより広範な視野を持ち、より深く熟慮された答えに到達するのだ。

まとめ


以上の概念を持って改めて「創発」とは何かを整理しておこう。

創発とは、複数の人間が言語を交わし合い、互いの概念の差異を発見し、それらを接続することで知を拡張する行為である。創発のループは無限に回り続け、最後にはより広範な視野を持ち、より深く熟慮された答えに導かれる。

創発においては、まず差異が生じる。複数の人間が言語を交わし合うプロセスで、互いの概念に様々な境界が引かれ、それによって新たな概念が浮き出るように表出し、それによって世界に多彩さが生じる。

次に接続が起こる。差異として展開された互いの概念が化合し、新たな展開が生まれ出てくる(単なる1+1=2の関係ではなく、1+1=3が在りえる)喜びを伴う創造のプロセスが生じる。

そのようにして新たな概念が生まれ出ると、言語を交わし合っている複数の人間の世界(概念)が膨張しつつ細分化を繰り返し、多様に、豊かになっていく。

是非、この文章を読むだけでなく、ご自身で実践してみていただきたい。家族関係や職場での人間関係を反省して見て、その関係性において創発関係が成立しているかを点検することも有意義だろう。創発は理解することが重要ではなく、実践することが重要だ。

蛇足だが、今回の創発に関する記事を私が創発するには、前提として様々な知識・経験が必要だった。経験としては5年のコーチング経験、知識としては特にベルクソンとドゥルーズ。それらを理解するための前提知識としての様々な哲学・宗教の知識が基盤となってこの記事は生み出されている。

つまり創発には”記憶”も不可欠なのだ。

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