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異端宣告されたマイスター・エックハルトの思想が意外と共感できつつ、大乗仏教的だったのに驚いた。

オッカムと同時代に生き、同じタイミングでキリスト教会から異端の告発を受けたエックハルトの紹介です。エックハルトはドイツのチューリンゲン生まれ、パリ大学で哲学と神学を学び、パリ大学で教鞭もとったようです。その後ケルンで神学者として活動していたころ、彼の主張が当時のキリスト教会界隈ではあまりに過激だったためにキリスト教の正統派から非難を浴びることになりました。

エックハルトは、神はその源初において無というほかはないと述べました。世界の創造以前に神は存在しなかったはずで、神は自ら人間や動植物などをつくることで世界に現れたと主張するのです。

それ以前には「無」でしかなかった人間は神によって存在を与えられますが、神もまた、人間に認識されることで初めて存在することが可能になったと考えます。

エックハルトは上記のように人間は本来「無」に等しいもので、神がその善き性質を付与した被造物として創造し存在することができるのだと述べます。ゆえに、被造物の側からの賢しらな努力で善い意思を持とうとするのは空しい試みであって、そんな意図(意思や認識)はすべて捨てて無になりきることによって人間と神との合一が果たされると考えました。

これは同時に、物質的な所有物をいくら捨てても、己の意志を捨てなければ無にはなれないということを含意します。これは当時ドミニコ会に対立していたフランチェスコ会の、自分の所有物を捨てようとする清貧の運動に対する批判を含んだ主張でした。

さらにエックハルトは、神と神の本質である「神性」の概念を峻別した上で、「神性」を「無」と表現します。そのため、「神性」に近づくためには形ある神は突破されなくてはならないと主張するのです。「神性」に近づくため、人間の思考に存在する「神」を捨てろとまで言ったのです。

この考えは、大乗仏教の禅の思想と共通点が多いとされ、私もそう思います。禅は悟りを求める人間の外側で拝まれる偶像としての仏を否定し、悟りを求める人間自身が仏であると説きます。そして、自分の我欲を捨てて「無」になり切ることで悟ることができると考えました。そういえば、こんな資料作りましたね。

私のコーチングは禅の構造と密接に関連していて、以下に示しますが、コーチングにおいて無分別の状態で自己を虚心坦懐に省察するのが、善き気づき(エックハルトの言う神性)に至るために不可欠のプロセスだったりします。

図1

そのため、エックハルトの主張は、コーチングに引き寄せて考えると重なる部分が多いのです。無分別の状態で自己を虚心坦懐に省察すると、人間はなぜだかわからないのですが、自己、及び、自己を超えた社会全体に対しての貢献を希求する洞察が出てくる傾向があります。そうした経験を踏まえてエックハルトは無になれば神と一体化すると考えたのかもしれませんね。

なお、人間と神が直接的に一体になり得ると説いたエックハルトの主張は、当時、神と人間の仲介の役割を果たすと考えられていた教会の権威を否定するものとみなされ、異端宣告を受けることになります。本当に当時のキリスト教会の真理の探究ならぬ権威の探求はしょうもないですね。

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