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①アンセルムスの神の存在証明とコーチング

アンセルムスは神の存在は論理的に証明できるとした

アンセルムスから中世スコラ哲学が始まったとされる人です。北イタリアに生まれ、1093年にイギリスのカンタベリー大司教に任命された、教会の中でも高い地位にあった人でした。

彼はその神に対する信心深さゆえ、その存在を深く理解し、確信したいと考えていたようです。そのため、論理的に信仰を基礎づけようとしました。その中で、神の存在は論理的に証明できると説いたのです。

アンセルムスによる神の存在証明は次のようなものです。おそらくは無神論者に対する反駁という位置づけでもあったのでしょうが、はっきり言って誇示的には詭弁であり、実用性を欠いた論理でしかないと思うのですが、中世には批判も多かったものの真面目に取り上げられていた考えのようです。

アンセルムスによる神の存在証明

1.まず、神を「最も大きな、つまり最も包括的な存在者」と定義します。
2.この場合、神とは、頭の中にある観念と実際に存在するものの両方の世界を含めた世界全体ということになります。
3.もしこのように定義された「神」が存在しないとすれば、存在するものは何もないということになります。
4.これは人間の経験的事実に明らかに反します。
5.そのため、最も包括的な存在者として定義された「神」は存在すると言えるのです。

いかがでしょうか?

はっきり言って相当な詭弁であまり実際上役に立たない論理展開だと思いますが、この考えは神の存在証明という意味でも1点問題を抱えています。

アンセルムスが証明したと主張する「神」は、上記証明の記述的に則すると大きいだけの存在者であり、「偉い」とか「万能」とか「善」とかいう評価的な意味を持っていません。

アンセルムスとしては、神の存在証明をするにしても、その神は全知全能であるとかいう評価的側面を伴った存在として証明されないとあまり意味がないはずなんです。

一般的に、大きいから良いという話はないのであって、神は偉大だという価値判断に、この証明はつながらないはずなのです。このように、アンセルムスの存在論的証明の問題点は、証明の仕方にあるというよりも、記述的意味と評価的意味を混同してしまっている点にあると言われます。

非常に知的な存在であったはずの教父、しかもカンタベリー大司教まで務めたアンセルムスが、このように論理的にも、感覚的にもしっくりこない詭弁的な神の存在論的証明をした意味は何があったのか?また、このような不十分にも思える論理がなぜ歴史に残る哲学的な思想の一つとして数えられているのか、私にはよく理解できていないのですが、どうなんでしょうね?当時の人たちは本当にこのような論理で納得できたのでしょうか。大いなる欺瞞がみてとれるのですが。

ともかく神の存在証明ありきで論理をこじつけ、教会の権威を伴いながら多くのキリスト者を納得(なかば盲信)させ、もって無神論者を糾弾しようとした意図をもって強弁したのでしょうか?このあたりの背景は少しだけ興味があります。

それにしても、神の存在証明は以降もさまざまな哲学者が試みていて、近代哲学のデカルトまで続いていく流れだったので、長らく西洋の哲学界の関心を集めた問いではあったようですね。

ところで、中世哲学にも①真理を知り得るとする立場(神秘主義含む)、②不可知論、③懐疑主義がどんどん出てきますが、この傾向はギリシャ哲学と同じように思います。単にギリシャ哲学は①②③が展開される論点が「善く生きること」にあり、中世哲学は「神それ自体」であったという感じで、問いのコンテンツが入れ替わったに過ぎないという感じがあります。

これは私の偏見かもしれませんが、中世哲学は①②③の哲学的手法(?)の洗練を欠いた、単なる「神」というコンテンツでの水平展開だったという感じがしないのではないですね。

①②③の哲学的手法それ自体を批判的に論じたのがカントだったのではないでしょうか。

コーチング的に解釈する

アンセルムスの思想をコーチングに引き寄せて考えてみて、何か気の利いたことが言えるのか、正直よくわかっていません。

ちょっと辛口になってしまうのですが、そもそも「神の存在証明」なるものが、人々を救ったのでしょうか?

ギリシャ哲学は必ずしも十分な形ではなかったにせよ、「善い人生とは何か」という問いを通じて、人間らしさ、人間の幸福、人間の矜持というものを正面から扱ったという意味において、コーチングの文脈に照らして豊穣な示唆が各哲学者から汲み取ることができます。

ところが、アンセルムスの思想には、それがない。中世哲学全般に空理空論の傾向は見て取れますが、アンセルムスの思想は特にその度合いがひどい(全国のアンセルムスの信奉者の皆さま申し訳ございません)。

彼の思想からは、キリスト教会の権威を高めんがための理論構築をしている意図が、私には透けて見えるのです。カンタベリー大司教という社会的な立場も相まってのポジショントークに過ぎなかったのではないでしょうか。一応、これはキリスト教批判ではなく、アンセルムスの神の存在証明に対する批判ですからね。

そもそも、これが本当に哲学と言えるのか?

哲学は物事の前提を問うものでありますが、哲学の傍らには常に、我々が善く生きるためにはどうあればよいのかという、実存的な問いがあるものだと思っていました。それことが哲学であると。

(あくまで私の大偏見であることは承知の上ですが)アンセルムスの思想から私が感じ取れるように、哲学が実際の人間の幸せから遊離して、何らかの勢力の権威を高めたり、世論形成のために使われるような堕落は本来あってはならないのではないかと思います。

まあでも、哲学が政治的イデオロギー論争の種に使われたフシは現代哲学でもありますね。結構前だとマルティン・ハイデガーとナチスの関係、ロールズとかノージックなどの政治哲学も同じことが言えるのかもしれませんが、詳細は勉強してみます。

改めてコーチングの文脈に引き寄せて整理しましょう。コーチングに哲学を応用するとしたら、論点設定されるものは空理空論であってはならないと私は思います。その哲学の射程には常に、クライアントの幸せであり、社会の安寧や発展に向かうものではならないと感じました。

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