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2人分の「カルネアデスの板」

釣られたのは、昨日だと言っていたが、大海原で自由に泳いでいた体長30センチの真鯖の眼に、これまでどんな光景が焼き付けられたのだろうか?戦火絶えない中東から、平穏を求めてここまで泳ぎ着いたのかもしれない。今は眼から光が失われ、不動のまま、まな板の上で、これから調理しようとする人間の腸内細菌の栄養になろうとしている。勝手な話だが、成長するだけで、他の種の役に立てる生き方って、何て真っすぐで、素直なんだろう。体の成長だけでなく、魂の成長を追求しないと、人の役に立てないと感じる人間に比べて、気楽と感じるのは人間の尊大さか?

普段の何気ない振る舞いが、一応自分ではこういう人間だと心の看板に掲げている自分像を裏切り、自分の本質を曝け出すことがある。それはほんの些細なやり取りだったが、自己執着からくる機転の利かなさのせいで、心の中に後味の悪さが残った。別の言い方をするなら、自然な愛されキャラ設定に必要な自己肯定感にひびが入る出来事だった。

ともに70過ぎで、釣りが趣味の主人と、店を仕切っている奥さん2人で営む、露天風の八百屋が近所にある。スーパーでは買い手がつかないようなものや、規格外のもの、自家製のものを安い値段で売っているので、こんなんじゃあまり儲けにならないのによく頑張ってるなあと思いながら、どこか親近感を覚えながら、週に1回はスーパーの帰りに立ち寄ったりする。

その日は目当てのものがあった。スーパーでは手に入らないが、その八百屋には置いてあるもの。晩秋の赤く色づくカエデを思わせる色にまで熟した柿。熟しすぎて商品価値が落ち、このまま買い手がなければ廃棄処分になるだろう柿たちに、冷凍保存による延命処置を施すべく、一皿、100円、4個入りの熟し柿を3皿買い求める。熟し柿の皿の隣に、スーパーでも売っている、若さを含んだ適度な硬さの柿の皿があった。それは一皿4個で200円。

奥さんが、私が買った熟し柿を一つ一つ丁寧に袋に詰めている間に、奥から主人が、昨日若狭湾沖で釣ったものだけど食べるかと、苦労して釣り上げたであろう成果の一部である、真鯖を冷蔵庫から取り出して、別の袋に入れてくれる。ただで頂けるのは有難いが、感謝を何らの形にしてお返ししないと悪いような気持ちになったが、無理にお返しするのも、相手に押し売りしているような気分にさせるから、ここは素直に感謝の気持ちだけを伝えるにとどめた。

会計を済ませる段になって、奥さんが、「600円です」と言った。どうやら、まだ熟していない柿の乗った皿の方の値段で計算したようだ。このまま間違った勘定通りに支払うと、300円損をするという気持ちの方が、300円以上の価値のある真鯖を頂いた感謝の気持ちを上回っていた。気づいたときにはその間違いを指摘していた。感謝の気持ちは、言葉だけの社交辞令だったのか?機転を利かせて、間違いを指摘せず、言われた通り払っていれば、感謝をいくらかでも形にして返すことができたのに。しかも双方のバランスの取れた、粋なやり方で、こちらの印象もよくできたのに。目先のものを失う痛みが、もっと大事なものに目を向ける余裕を奪った。

意図的な間違いでないのはわかっているが、それが結局、私の感謝がいかに底の浅いものだったかが、暴かれるべくして暴かれた感が否めない。考えすぎかもしれないが、それだけではなく、もっと深い所まで曝け出すことになったのではないか?カルネアデスの板の話を思い出した。あの設定では、沖で難破した船の乗員2人が、ひとり分の体重を支えるだけの浮力しかない一枚の板を、どちらかの命を犠牲にしてどちらが助かるかの実験だが、現実には、2人が乗っても十分浮くだけの丈夫な板を、ひとりしか無理だと、お互いが都合のいいように思い込んでいる場合の方が多いのではないか?板につかまろうとする相手を突き放すための口実として。もしこの真鯖が世界の海流にもまれながら旅を続けたように、私も自分の心の海を隈なく泳ぎまわれたら、思い込みの方を優先することで、知らないうちに争いの火種を相手に植え付ける可能性を自分も秘めていることに気が付かずにいることはできない気がする。


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