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石地蔵

山での伐採作業で出くわした事故は、まるで仕組まれていたように、山の斜面で起こった。今でも心をよぎるのは、その斜面の上にポツンと斜めに置かれた石地蔵。どうしてこんなところに剝き出しのまま置かれているのか?いつのまにか土壌から生えだしたつくしのように、そこに存在している。一瞬捕らわれた妙な違和感を振り払って、斜面に傾くように伸びた高さ20メートルの杉2本の根元にチェンソーの刃で受け口を入れる。その杉が斜面に倒れた先には民家の屋根があるが、そこまでは届かないだろうと計算して、追い口を入れる。民家の屋根にばかり気をとられて、全然意識になかった石地蔵。倒れた杉が石地蔵に当たるかどうかを一瞬でも考え、石地蔵をないがしろにしていなければ、この後に起こる出来事に違いがあっただろうか?。幸い石地蔵には当たらなかったが、結果良ければいいというのは、危険と隣り合わせのこの仕事では絶対にしてはならない言い訳だ。

その石地蔵が、作業行為に潜む危険を予知する能力不足を戒める鉄槌を私に下したとしか思えない。伐倒した杉を斜面で玉切りしていた時だ。石地蔵のすぐ下にあった丸太が、音もなく忍び足で私の背後まで転がってきて、右膝の裏にその重みを乗せた。脂汗が額に滲み、血圧が急激に下がっていくのがわかる。

全身麻酔で、深い眠りについた右膝の筋肉。眠りから覚めた筋肉は、再建された十字靭帯と内側側副靭帯、修復された半月板とともに、新しい内部の配置に慣れるまで、苦悩の静観を強いられた。筋肉に刺激と負荷を与えるためのリハビリが始まる。皮膚感覚を通して筋肉を意識するようマッサージが施される。その感触に、全身の筋肉を巡る血液が徐々に修復する意識に力を与えていく。今まで無意識に自由に動かせていた膝関節の神経回路が、いかに複雑な愛で織り込まれていたかを痛感する。感謝を忘れていた愛の信用残高を積み上げるように、筋肉に意識を集中してリハビリに励む。

架空の愛の重みに耐えるように、息をつめて筋肉に負荷をかける。痙攣する限界まで負荷をかけると、糸につられたいも飴が、口元まで下りてくる。一度いも飴を口にした時の歓喜の興奮、そのうまみをまた味わいたくなって負荷をかける。筋肉はさらに重い愛のバーベルに挑戦する。そういう神経回路が再生されつつあった。担当の理学療法士の可愛い顔に笑顔の花を咲かせたいという下心もあったのは確かだ。

徐々に再生され積みあげられた筋肉は、琥珀色の宝石箱になり、その箱の中で燃える赤いハート形の蝋燭は、その滴に想いを託し、その熱い滴を受けとめる相手を探す。赤い斑点が繋がり、その面積を広げるにつれ、蕩けていくチョコレートから漂い始めるような秘めやかなカカオの香りが宝石箱に充満するのを期待して。

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3,275字
物語に登場するさまざまなキャラクターの認知の歪みが交じり合い、多彩で深みのある情景や世界を描かれるとき、「作られた」現実の世界と「現実」の境界はぼやけてくる。小説は私たちの認知の歪み、そしてその歪みが作り出す無限の可能性を、現実以上に巧みに描き出せる

「認知するから世界が存在する。現実の世界は脳の創造物で、脳の数だけ現実が存在する。私たちの認知の世界は「イルージョン」であり、脳に完全に依…

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