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(52)岡村の出征、川田の復帰/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
1943(昭和18)年、岡村龍雄は劇団青春座の中心となって活躍する一方、あきれたぼういず改め新興快速舞隊は解散し、ボーイズの時代に終止符が打たれた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

▶︎今回からは数回に分けて、終戦までの各メンバーの活動をみていきたい。

【川田の退院】

1943(昭和18)年7月、無事退院した川田。
「それでも七ヶ所も切開手術をしたので、ちょっと僕の腰部は公開が許されません」(川田義雄/『日本演劇』1945年6・7月合併号)という過酷な治療と入院生活も一応は終了し、すぐに舞台へ復帰というわけにはいかないが、やはり岡村や益田の舞台を観に出かけている。

 脊髄カリエスを手術して一年と四十五日間病院に篭城していた川田義雄がやっと退院、寝足のビッコを克服するまでは当分舞台へ復帰できないが、元気は人一倍で千葉の自宅にジッとしていられず、杖にすがって弟の岡村竜雄が出ている邦楽座や往年の仲間益田喜頓が出ている金竜館あたりへヒョコヒョコ出かける、その度に電車の中で「ご苦労様です」と席を譲られるので川田恐縮

「噂の通信筒・其後の川田」/東京新聞・1943年7月18日

「ご苦労様です」と言われて恐縮……というくだりは、傷痍軍人に間違われてのことだろう。

松竹系劇場広告:常盤座に岡村、金龍館に益田、そして邦楽座には坊屋が出演中/東京新聞・1943年7月31日

9月8日には、久々にラジオ放送。
まだ脚が不自由だが、ラジオなら問題ないわけだ。
これを聴いた人が都新聞に質問を送っている。

問 久し振りに川田義雄が放送に出演しましたが、彼は今後再び舞台に活躍するのでしょうか(浅草・清水雅夫)
答 今秋中には舞台に出る事になっています、しかし患った方の脚は歩行にはまだ杖に頼らなければならないような工合なので当分芝居めいた事は出来ませんが、気の利いたバンドを擁して、彼十八番の歌謡浪曲で再出発することになりましょう、とは吉本興業側の話です

「質問調査室」/東京新聞・1943年9月12日

芸人が表舞台に出ない時期が続けば、忘れ去られるのが常だが、こうして度々近況記事が出たり、復帰を待つ声があったりするというのは彼の人気の揺るぎなさの表れだろうか。
そしてラジオに続き、映画出演、そして舞台復帰を伝える記事が出る。

 川田舞台へ
 一年半の病院生活からやっと解放された川田義雄、まだ足は不自由だが元気は横溢、此間「前線へ送る夕」の放送に一役買って出て小手調べをやり調子がよかったので愈々復活を決定、先ず東宝映画「浪曲忠臣蔵」に瓦版売で出演、十一月には浅草花月劇場へ丸二年ぶりで舞台出演、「まだ当分ビッコなのでカワッタ姿にお客が驚くでしょう」と当人心配しながらこの処ビッコ克服に大童

東京新聞・1943年10月5日

しかし、ここにある11月の浅草花月劇場への復帰は実現せず、本格的な舞台復帰は12月まで待つこととなる。

【岡村の出征・川田の復帰】

一方、青春座で活躍を続けていた岡村だが、11月、彼に召集令状が届く。
同じく青春座の山口も召集され、一座も解散することに。

東京新聞・1943年10月16日

岡村は、出征から一年足らずの翌1944(昭和19)年7月、グアムで戦死している。
彼が召集されなければ、あるいは生きて帰還していたら、さらに飛躍的な活躍をしてくれたのではないかと悔やまれてならない。

 川田義雄二年振に舞台へ
 病気恢復した川田義雄は来春二月頃を期して二年振りで舞台に復活すべく目下「川田義雄劇団」を纏めつつあるが、それに先立って来月五日の大阪常盤座で昔の師匠カワベキミオの一座へ単身特別出演の形で久々に舞台を踏む事になった…

東京新聞・1943年11月26日

一方川田は、ようやく舞台へ復帰。
12月5日から、大阪千日前常盤座のカワベキミオ一座公演に特別出演する。
師であるカワベとの共演は「ジャズ・オブ・トーキョー」以来ではないだろうか。(※「ジャズ・オブ・トーキョーについては▶︎(3)を!)
岡村の出征と入れ違いなのが悔しい。

千日前常盤座広告/大阪毎日新聞・1943年12月4日

続いて東京に帰り、銀座前線座の年明け1944(昭和19)年元旦公演に出演する予定だったが、大阪公演の疲労のため1公演見送り、11日から出演。
完全に本調子というわけではなさそうだ。

銀座全線座で笠置シヅ子と初共演/東京新聞・1944年1月11日

しかし、2年も舞台を離れていた川田の舞台へかける情熱は熱く、3月1日からは「川田義雄一座」を旗上げ、ホームグラウンドである浅草花月劇場に舞い戻って精力的に活動していく。

川田義雄一座旗上げ公演/東京新聞・1944年2月29日

年が明けて1945(昭和20)年。

川田は変わらず浅草花月劇場で奮闘している。
このころの日々の様子を、川田が雑誌で綴っている。
不自由さののこる右足で毎朝浅草へ出かけ、夜も空襲警報に起こされ、休まらない毎日である。

 帝都も連日の空襲では前線も銃後もありません、僕のような病身な男でも毎日救急袋を肩にかけて渋谷の明治神宮近くから職場へ出勤です。

 近来は常態が悪く地下鉄の階段を上るのにも骨が折れます。然も劇場に風呂がないので顔を洗う程度でも宅へ帰りますが風呂は矢張ありませんから冷水摩擦です。之は相当努力と勇気がなければ出来ません。
 洋服から袍褞に着替えてお膳の前に座るのが一日中での慰安で顔がボーッとなると防空服装に着替る訳ですが、之で床に這入ると夜三回位は空襲で起される。僕は調子が高いので隣組を起したり、待避の号令をかけたり、昼は興行三回、夜は防空三回の活躍、之が現在の日課です。

川田義雄「興行昼夜六回」/『日本演劇』1945年6・7月合併号

よく通る声が夜の空襲警報下でも活躍、昼の公演と合わせて表題の「興行昼夜六回」というわけだ。

また、劇団の苦労も赤裸々に訴えている。
一座からはどんどん戦地や軍需工場へ人員が奪われてゆき、物資の不足で舞台化粧や衣装もままならない状況だ。

 一番嬉しくもあり憂鬱にもなるのは此劇団から国家のお役に立つものが急に離れて行くことです。我々のような劇団から軍に工場に一人でも多くの御奉公の出来るものが出て行くのは実に喜ばしいことではあるのですが、興行の中途で役が変更され、人頭が少い為に一部の役を抜いたりするというような時は、此方の演出にも多分に差障りが出来ることになるのです。…(中略)…壮行会をやって本人は元より此方も好い気持で送り出すのですが劇団の痛手は相当なものです。

 又見物から髷物は必ず一本つけて呉れという注文もあるので髷物をやるのですが、白粉が少ないし、石鹸の配給も思うようにないのですから、今度の定九郎のように足や腕を上の方迄塗込むとなると大変です。…(中略)…花柳界の姐さん方から集めて来て僕等のようなものが、多いに役に立てる思えば実に不思議な世の中です。白粉はそれでも好いのですが、足袋や靴下の自前、此奴は何うもうまい工合にゆかない為、二枚目も継はぎだらけのもので出るのですが、之は一ッ御勘弁願いたいものです。

川田義雄「興行昼夜六回」

ようやく舞台へ出られるようにはなったものの、戦況は悪化し生活も舞台もますます苦しくなり、苦労が絶えない。


【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『日本演劇』1945年6・7月合併号
CD『楽しき南洋』リーフレット/オフノート・華宙舎/2010
「東京新聞」/東京新聞社
「大阪毎日新聞」/大阪毎日新聞社


(次回)益田・坊屋・山茶花の終戦まで

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