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(3) ジャズ・オブ・トーキョー:川田義雄②/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
川田義雄は江戸っ子。
20歳までは病気を治療しながら、浅草へ入り浸っていた。

▶︎前回に引き続き、川田篇。
今回はいよいよ舞台デビューするが……

【歌手デビュー】

貿易商か新聞記者か舞台人になりたかったという川田が、2年の療養を終えて飛び込んだのは舞台の世界だった。

時代はまさに、レヴューブーム真っ最中。
1930(昭和5)年、浅草のレヴューブームの火付け役ともなった「カジノ・フォーリー」の採用試験を受けたが、これは残念ながら落第。

次に、音羽座に出演中であったレヴュー団「木村時子一座」が歌手を募集していると聞き、テストを受けに行った。
「鉾をおさめて」「荒城の月」などをテノール歌手・藤原義江ばりに歌い、こんどは合格。
7月11日、ついに歌手としてデビューすることとなった。
川田、23歳の夏だった。

▶︎カジノ・フォーリー - Wikipedia
▶︎木村時子 - Wikipedia

音羽座の支配人をしていたカワベキミオ(河辺喜美男)が、「川田義雄」という芸名をつけてくれた。
小学校時代からクラス会でハーモニカを披露するなど、人前に立つことに慣れていた川田は舞台度胸には自信があった。さっそく「ペトルシュカ」や「紐育行進曲」をソロで歌ったという。

ちなみに音羽座の地下にある楽屋、すぐ隣が浴場なので夏は暑くてたまらない。
川田曰く「あの夏の暑さが今のように僕の頭の毛を薄くしたのではないかと思うと、恨めしくもある」とのこと。

そして秋に差しかかり、風呂の熱気がありがたくなりだしたのも束の間、音羽座が浪花節の常設小屋に変わることに。木村時子一座は10月に解散してしまう。
川田が浅草に間借りを始めた矢先のことだった。

カワベは、浅草オペラ華やかなりし頃、日本館でデビュー。
のちに「笑の王国」でも活躍する。
川田の芸名はカワベの「カワ」と彼の本名「田中」の「田」からとった、という説もある。

【ジャズ・オブ・トーキョー】

川田はカワベキミオが組織した小さな一座に入り、映画館のアトラクションをして回った。
やがて、カワベがマネージャー、川田が座長となり「ジャズ・オブ・トーキョー新劇レヴュー団」を名乗る。
デビューして数ヶ月で早くも座長である。

12月には、玉木座に出演していた「プペ・ダンサント」(カジノ・フォーリーから離れた榎本健一が新たに旗上げした一座)が地方公演に行っている間の穴埋めに出演。
1931(昭和6)年1月からは浅草劇場(オペラ館)に移った。
このあたりの公演については『地球の上に朝が来る:川田晴久読本』内の「川田義雄の半生記」(瀬川昌久)がとくに詳しい。

春にはジャズ・オブ・トーキョー新劇レヴュー団は東京を離れ、浜松で開催された全国産業博覧会にアトラクションとして出演している。
博覧会は3月15日から開催され、川田ら一団は4月4日からお目見得している。

『浜松市主催全国産業博覧会協賛会誌』では観覧者の印象について、こう記されている。

 四月四日から出演したジャズ・トウキョウ歌劇団は流石に其の名に恥じなかった、コメデーものもスケッチも実に軽快なナンセンスで高尚に偏せず野卑に堕ちず、背景出演共に奇抜で清新で近代人の心持ちをシックリと掴んでいた、中でも田中寿々子と川田義雄が断然光って居り、寿々子の舞踏「鉾を収めて」などは其の道の人ですら感嘆して止まざるほどであった。

『浜松市主催全国産業博覧会協賛会誌』


田中寿々子の踊る「鉾をおさめて」、歌はもちろん川田である。他にも芝居に歌にと大活躍しており、まだデビューから一年も経たないうちから、川田が既に抜きん出た精彩を放っていることがわかる。

▶︎浜松市ホームページより「浜松市制一〇〇周年記念・はままつ百歳」

【巡業の果て】

その後、横浜、名古屋、岐阜、金沢など地方巡業を続けた。
しかし、まだ地方ではレヴューは理解されにくかったようで、苦労した末に満州へと渡った。
ちょうど満州事変が起きた直後だというから、1931(昭和6)年の終わり頃か。

満州、朝鮮と巡業を続けたが、座員が次々に逃げ出したり、楽士が楽器を持ってドロンをきめこんだりして、
「しまいには、ヴァイオリンと太鼓だけで唄を歌うなんてことになった」というから大変だ。

煙草がないので宿屋の畳をむしって新聞紙で巻いて、煙草代わりに吸っていたとか、
昼間は皆で「ハトポッポ」を合唱していたなんていう、ヤケクソみたいな話もある。

そんな大変な思いをしていた折、偶然商用で朝鮮へ来ていた白木屋の専務を見かける。
白木屋は当時日本橋にあった百貨店で、専務はそのホールに時々川田達を呼んでくれていた。
専務に頼みこんで旅費を都合してもらい、なんとか日本へ帰れることになった。

 一番ラストのデッキの上で、僕は「バカヤローッ」と大声で叫んで、海の上へ小便をしたことを覚えている。そのトタンに汽笛は鳴って船は出た。この心理は、あの「人生劇場」の中に出て来る青成瓢吉が林の中で「この人生のバカヤローッ」と怒鳴るあれと同じものである。
 決して朝鮮に向って怒鳴ったのではない。僕自身僕のみじめさ、いや、何か得態の知れない人生の不可思議な、又魅力ある姿に向って思わずも発した感激の叫びである。それは「バカヤロー」に替うるに「神さまァ」を以てしても同様であると僕は思う。

「あきれた自叙伝」川田義雄/『中央公論』1940年春季特別号

帰国するとさっそく、川田らは横浜で約10日間、続けて名古屋で公演を行った。
(この名古屋公演については後ほどまた触れるので、心の隅に留めておいてほしい)
しかしそんな奮闘もむなしく、結局東京まで辿り着く前に「ジャズ・オブ・トーキョー」は解散となってしまったのだった。


【参考文献】
「川田義雄訪問記…家庭第一主義の愛妻家」宮薗姚子/『スタイル』1940年8月号
「あきれた自叙伝」川田義雄/『中央公論』1940年春季特別号
『浜松市主催全国産業博覧会協賛会誌』全国産業博覧会協賛会 編/全国産業博覧会協賛会/1931
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
  「川田義雄の半生記」瀬川昌久
  「川田晴久年表」岡村隆太
『松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち』中川右介/光文社/2018
「エンコ群雄伝/お寒い時代の思ひ出を語る二人」/都新聞1937年4月22日/都新聞社
「人気者が語る初夏の宵話四篇:狭い楽屋の幕内生活」川田義雄談/都新聞1940年6月26日/都新聞社

【地図参考資料】
『浅草六区 : 興行と街の移り変り』台東区教育委員会 編/台東区教育委員会/1987
『浅草』高見順/英宝社/1955


▶︎(2/26UP予定)川田の人物像に迫る

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