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(19)オオタケ・フォーリーと粟ヶ崎大衆座②/あきれたぼういず活動記

(前回までのあらすじ)
芝利英は、大竹タモツ率いるオオタケ・フォーリーに加入したが、活動休止に。
益田喜頓らと「明朗五人ボーイ」として粟ヶ崎大衆座に加わることとなった。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【パンフレットに見る粟ヶ崎公演】

明朗五人ボーイらが加わっての第1回公演の演目は、
お伽歌劇「牧人の戯れ」、時代劇「一筋の道」、レビュー「人生修業」、諷刺劇「ラヂオ風景」、ヴァラエティ「アップライン」となっている。

そして7月からの第2回公演は
喜歌劇「あこがれ」、社会劇「野心の入智恵」、オペレッタ「愛の花束」、時代劇「渭津城秘話」、ナンセンスレヴュー「与太者の唄」、現代喜劇「知らぬ者同志」。
この第2回公演のパンフレットが、内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」に保存されている。

▲筆者のブログに、許可をいただいて掲載しています。ブログ内の情報は調査途中のものですのでご注意ください!

プログラムを見ると、少女歌劇の女性陣に「明朗五人ボーイ」を加えての舞台と、村井靖彦演出・池上良一主演の一座の舞台を交互に上演していることがわかる。
そしてこれら全体をまとめて「粟ヶ崎大衆座」と呼んでいるようだ。
オオタケ・フォーリーにいた「室町勝子」の名前もあるので彼女も芝や丸と共にやってきたらしい。

そして注目したいのは、芝や益田が舞台に立つだけでなく、演出も手がけているところだ。
小さな一座なので、演出も出演者が兼ねていたのだろう。
ただしこの公演の演出については、北國新聞(1934年7月6日)の芸評で「演出の余りにも悪く」「全般に渡って舞台上の統一がなく各俳優が個々に勝手な事を演っているのは正にこれ舞台上のバラバラ事件である」と散々にこき下ろされている。

▲内灘町HP内で、藤井とほる一座の舞台写真を見ることができます。

【益田喜頓、ムーラン・ルージュへ】

しばらくは粟ヶ崎遊園に腰を落ち着け、奮闘していた明朗五人ボーイだが、やがて益田が上京したいと言い出した。

 益田喜頓は、心の中にしまっていた帰京の時機が到来したと判断した。いよいよ粟崎ともバイバイである。時機を失したら、いつ東京へ帰れるか分からない。そう思うと、喜頓は居ても立ってもおられなかった。
 喜頓は、みんなに事情を説明し「どうだい、一緒に東京へ出ないか?」と、芝利英を誘った。
 「…………」ちょっと考え込んでいた芝利英は「しばらく宮川さんと一緒にここにいる……」と、ボスの顔を見た。
 「だったら、ぼくだけ東京へ出ます……」と、喜頓はボスの宮川敏(藤井とほる)に願い出た。

 「悪いけど、いま現金の持ち合わせがない。これを持っていきな……」と宮川は、せん別代わりにサキソフォンを渡してくれた。
 一座には、サキソフォンやドラムなどバンドの楽器がかなりあった。北海道の五十嵐という人が金を出して買ってくれたものだ。
 「このサキソフォンは多少値のするものだから東京で売り、当分の間の小遣いにして、浅草なら浅草でじっくり勉強しなさい」とも、宮川は言ってくれた。

高室信一『粟崎遊園物語』

これがこの年の夏頃のことらしい。
文中の「五十嵐」は、札幌の赤い風車レヴュー団を作った五十嵐久一のことだろう。
上京した後の益田の経歴についてははっきりとは分からないのだが、秋には新宿のムーラン・ルージュに出演している。

▶ムーラン・ルージュ:wikipedia

劇作家・阿木翁助の自伝的著書『演劇の青春:築地小劇場、ムーラン・ルージュからの出発』の中で、彼がムーラン・ルージュの文芸部員になる以前に応募した脚本が当選し、自身の処女作の上演を観に行ったときのことが書かれており、この中に、益田が登場している。1934年10月27日初日の公演だったという。

 目明しの文吉が二人の子分をつれて歩いていると、一人の怪しい男が舞台を走りぬけ、二人の下っ引きが追跡してくるところがある。文吉らはそれを見て、同業者の苦労に同情するという芝居なんだが、怪しい男が出て来ない。したがって二人の下っ引きも出て来ない。目明しに扮した三国(三国周三)が困っている。
 私は気が気でなく腰を浮かしたが、とうとう舞台は、いいかげんで暗転になってしまった。これはあとでわかったことだが、この「怪しい男」をやることになっていたのは後年の益田喜頓で、彼は軽い役なのでうっかり忘れて楽屋風呂へ入ってしまい、あわてた進行係がさがしに行ったら、裸で合掌していたのだという。

阿木翁助『演劇の青春:築地小劇場、ムーラン・ルージュからの出発』

阿木はのちに吉本ショウの文芸部に参加し、益田と再会している。
このムーラン・ルージュでの一件を話すと、やはり両掌を合わせて謝られたとのことだ。

【大衆座の解散】

粟ヶ崎遊園は冬の間は休園となる。
11月20日からの公演が、大衆座の公演納めとなった。
半月後の12月15日から年末までは、遊園を離れて金沢の香林坊帝国座に出演。
そして翌年の粟ヶ崎遊園では、結局元通りに少女歌劇のみを上演することになったため、大衆座は年末で解散となった。藤井徹は、その後も少女歌劇の演出を手掛けるなどして、粟ヶ崎遊園に関わっている。

drawn by お絵描きばりぐっどくん

【オオタケ・フォーリーふたたび】

近代人の笑い
爆笑王! オオタケ・フォーリイ
三友劇場出演
 昨年松竹SYで生れたオオタケ・フォーリイの大竹保は右太プロ映画出演等で公演を遠ざかっていたが、突如! 三友劇場と契約なり四月卅日から全プロ公演と決定、尚出し物は「弥次喜多漂流記女護ヶ島の巻」「大學は出たけれど」等で、一座は大竹保イットジャズシンガーで定評ある丸山ユメジ嬢他五十余名の踊子で編成され、大いにその躍進振りが期待されている

京都日出新聞/1935年4月29日

大竹タモツの映画出演のため活動を休止していたオオタケ・フォーリーだが、1935(昭和10)年5月、約一年ぶりに活動を再開する。
再始動最初の公演は、以前「赤い風車」も出たことのある京都三友劇場。

△再始動第一回目、1935年4月30日からの三友劇場公演のパンフレット。芝利英が参加している。

4月30日からの第一回公演のプログラムを見ると、芝利英や白川夜舟、東條玲子、遠山時子、加茂川清子など昨年のメンバーも再び参加しているほか、歌手の丸山夢路等も加わり以前より少し大所帯になっているようだ。
また、芝利英が振付や演出にも携わっているのが興味深い。
粟ヶ崎遊園での半年間の経験がここで生かされたのだろうか。

5月末まで一ヶ月間の予定だった三友劇場での公演だが、かなり好評だったようでその後5日間のスペシャルプログラムを行っている。
その後、8月末からは同じ京都内にある長久座で公演しており、主に関西を巡っていたと思われる。


【参考文献】
『粟崎遊園物語』高室信一/内灘町/1998
『演劇の青春:築地小劇場、ムーラン・ルージュからの出発』阿木翁助/早川書房/1977
「わが愛するコメディアンは私」阿木翁助/『悲劇喜劇』1993年6月号より/早川書房
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
「京都日出新聞」/日出新聞社
「北國新聞」/北國新聞社

【参考ウェブサイト】
砂丘の夢、粟崎遊園について/awapage(44〇)/https://profile.ameba.jp/ameba/awapage
3.最盛期の粟ヶ崎遊園(1933年~1937年) - 内灘町公式ホームページ https://www.town.uchinada.lg.jp/site/uchinada-history/12532.html


(6/18UP)吉本ショウ、始動!

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