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(13)札幌初のレヴュー団/あきれたぼういず活動記

(前回までのあらすじ)
坊屋三郎と芝利英、益田喜頓は札幌の北海中学に在籍したが、益田は中退して函館に帰り、坊屋は卒業して上京した。

【札幌初のレヴュー劇団】

1931(昭和6)年1月、札幌初のレヴュー劇団「赤い風車」が誕生した。立ち上げたのは五十嵐久一(※1)。

北海道大学医学部の学生であった五十嵐久一は、1929(昭和4)年に父が亡くなり、父が事業で成功し遺した莫大な遺産を得た。
しかし久一のほうはあまり商売は得意ではなかったようで、事業に手を出して失敗、父が所有していたあちこちの土地を整理したり、そうこうしてるうちに大学も中退することになる。

そんな中、上京した折に観たのが当時流行のレヴューだった。彼はのちに新聞のコラムの中でその思い出を語っている。

 昭和五年に初めて上京。上野の音楽学校にいた中学時代の同期生に連れられて、初めて見たのがムーラン・ルージュ。(※2)
 軽演劇と舞踊が主体で、まことに面白い。ムーラン博士が幕あいに出て、風刺のきいた話をする。地方では禁句になっている政治問題などを、ずけずけやる。そのうえ適当にエロ、グロがあって、極めてナンセンス。上京のたびに通った。エノケンもシャリアピンもいったけど、ムーラン・ルージュに勝るものはなかった。とりこになったね。

五十嵐久一「わたしの北海道」朝日新聞道内版/1978年8 月23日・24日掲載

子どもの頃から活動写真や芝居が大好きだった彼は、父の遺産を元手に自身のレヴュー団を作ろうと思い立ったのだった。札幌初のレヴュー団「赤い風車」の誕生である。

(※1)五十嵐久一 いがらし・きゅういち
1909(明治42)年1月7日〜1985(昭和60)年3月5日
札幌市生まれ、北海道帝国大学医学部中退。北海タイムス(現・北海道新聞社)、旭川新聞で長く新聞記者をしており、同時に旭川短歌会を主宰、自由歌人社を設立するなど詩歌を中心に文化活動を行う。(参考:北海道文学館・編『北海道文学大事典』北海道新聞社/1985)
(※2)
 ここで五十嵐が観たと語る「ムーラン・ルージュ」は、レヴューや軽演劇を上演していた「ムーラン・ルージュ新宿座」のことだと思われる。しかし、この劇場のオープンは1931(昭和6)年末で、彼が上京したという昭和5年にはまだ存在していない。そればかりか、赤い風車の立ち上げのほうが、ムーラン・ルージュ新宿座より一年早い。
 五十嵐は同記事内でカジノ・フォーリーとムーラン・ルージュを混同しているふしがあるため、五十嵐の記憶違いの可能性があるが、しかし「赤い風車」という名前がムーラン・ルージュにちなんでいるだけに疑問が残る。(フランスの本家「ムーラン・ルージュ」はすでに存在。)
 また、「赤い風車」という劇団名はのちの文献にはいくつか出てくるが、当時の広告や新聞等では確認できておらず、いつからどのように名乗っていたのかは判然としない。ともあれ、このnoteでは「赤い風車」という呼び方で統一しておくことにする。

【ホラ川の誘い】

益田喜頓はある日、新しくできるレヴュー団「赤い風車」への誘いを受けた。

病気で北海中学を中退した益田は、故郷の函館に帰り埜邑(のむら)漁業という蟹工船の会社へ就職。
それと同時に社会人野球チーム、函館太洋(オーシャン)倶楽部の一員となって野球を続けていた。
さらにプロ野球チームへの誘いもあったというが、鈍足のため自信がなく辞退。

 それ以来私はどうも野球には魅力をなくして演劇研究会の方へだんだん傾いていったわけです。

 このまま野球も中途半端で、サラリーマンとして終わるのか、なんとなく平和な、というより無難な毎日でよいものなのか。俺の生活はこんなものなのか。いや俺には何かやらなければならないものが他にある、少年時代考えた夢があるなどと、何となしに息苦しい日が続いていた時でした。

益田喜頓『キートンの人生楽屋ばなし』

そこへ声をかけてきたのが、中学時代からの友人ホラ川こと広川である。
彼は「赤い風車」の相談役を頼まれたのだそうで、演劇好きの益田を誘ってきたのだ。

幼い頃からの喜劇熱に後押しされ「赤い風車」へ参加する決心をした益田は、仕事を辞め、再び札幌へ向かった。

【旗上げ公演】

1930(昭和5)年の暮れ、五十嵐は中島公園の藻岩橋のたもとに家を一軒借り、赤い風車の合宿所とした。

益田が参加したときには、浅草から呼び寄せたというメンバーも揃い、稽古が始まっていたという。
カジノ・フォーリーから呼びよせた松山浪子、坪井敏光、花岡菊子、南扇子に加え、日活スター伊藤隆盛、文芸部長として水守三郎。

そして1931(昭和6)年1月1日、札幌狸小路にあった色物専門の劇場・盛賑館で旗上げ公演を行う。

当時の北海タイムス(現・北海道新聞)に、この旗上げ公演の広告が出ている。
劇団名は赤い風車ではなく「U.M.Gガクゲキブ」となっているが、広告の内容からみて赤い風車と同一の劇団とみてよさそうだ。

北海タイムス(1930年12月31日)※3

(※3)公演前日の広告を見ると最上段に一番大きな文字で「ジャズとレヴュー」、その下には先述のようなカジノ・フォーリーの面々の名前が。ただし「花岡菊子」ではなく「花岡鈴子」となっていたり、水守三郎の記載はないなど、益田の著書との相違もある。実は益田が挙げたようなカジノ・フォーリーの面々が確かに赤い風車に参加したといえる資料は今のところ見つかっていない。
カジノ・フオウリイの贋物の如きも、南は九州、台湾から、北は北海道まで巡業しているなり。」(川端康成『オール淺草レヴイウ日記』)
ひょっとするとこの線だったかもしれないが…。

当時流行の「エロ・グロ・ナンセンス」を押し出しているのがわかりすぎるほどわかる広告。
演目は短いコント風な喜劇二本とバラエティーショーで、唄と踊りそしてバンド演奏と盛りだくさんだったそうだ。
参加当初は裏方の手伝いをしていた益田も、出演者に穴が空き代役を務めたのがきっかけで舞台に立つようになる。
それを見た伊藤隆盛から「君の動作は自然で喜劇的な要素がある、喜劇役者になりたまえ、成功するよ」と言われ、励みにしたという。

また、1月9日の広告は宣伝ではなく、手続き不備により7日の公演が中止になったことを謝罪する内容であるが、その文中に「本格的ジャズとレヴューは当市として最初で御座います」とある。

北海タイムス(1931年1月9日)

さて、この札幌初めての本格レヴュー公演がどのような結果になったかというと、益田の著書に曰く

 初日から二週間くらいは前宣伝も十分だったし物珍しいのもあって客の入りもよかったのですが、日毎に客は少なくなりました。

 一日五十人くらいで天候の悪い日などは二十人を切ることもあり、事務員とか案内の女性達が気の毒がり客席へ座って重い手を無理に叩くことになりました。

益田喜頓『キートンの人生楽屋ばなし』

また、五十嵐曰く

 惹(じゃっ)句はエログロ・ナンセンス。でも宣伝が下手だったせいか、お客さんは入らない。ひどい時は二人、木戸銭返して帰ってもらったこともありました。なにしろ北海道では初めてのレビューで、札幌っ子にもハイカラすぎて、あの面白さがわからなかった。それに世界的な経済不況、映画も無声からトーキーへと、流れが大きく変わりつつあった。俳優やダンサーなどは東京に帰ることができたが、帰っても仕事のない楽士は合宿でゴロゴロしていた。これがまた大変な物入りで、遺産の土地はどんどん消えていきましたね。

五十嵐久一「わたしの北海道」

しかし、赤い風車は翌月にはさらに大きな札幌劇場でも公演を行っている。
二人が言うほど散々な結果でもなかったのか、それとも五十嵐の資金と熱意の成せるものなのか。

北海タイムス(1931年2月5日)

2月5日の広告には、本当か嘘か知らないが「連日満員」とデカデカと出ている。
その下には小さく「研究生募集」の文字が。
五十嵐によれば、客入りの少ないわりに、研究生の応募は多かったという。

そしてその中に、北海中学5年生だった芝利英がいた。


【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『乞食のナポ:喜頓短篇集』益田喜頓/六芸書房/1967
『オール淺草レヴイウ日記』川端康成/昭和5年頃
  ※『川端康成全集』(新潮社/1983)掲載のものより引用
「わたしの北海道」五十嵐久一/朝日新聞道内版/1978年8月23日・24日掲載/朝日新聞社
「北海タイムス」/北海道新聞社


(5/7UP)赤い風車の巡業

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