(前回のあらすじ)
あきれたぼういずに松竹楽劇団移籍の話が舞い込む。
四人は乗り気だったが、吉本興業・林弘高の反対で取り止めに。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【上山敬三との出会い】
少し時間は遡り、1938(昭和13)年春頃のこと(※1)。
有楽町のビヤホール「ニュートーキョー」でとあるパーティーがあり、ここにビクターの上山敬三が来席していた。
そこへ余興で出てきたのが、あきれたぼういずだった。
初めて見るそのパフォーマンスに衝撃を受けた上山は、ぜひこれをビクターでレコード化したいと、翌日さっそく浅草へ出向いた。
喫茶「ブラジル」で待ち合わせたが、内心「浅草の人に会うのはこわかった」という。
そんな心中の反映か、あきれた四人に対する第一印象はおっかない。
しかし、レコードの話を持ちかけた途端、四人の喜びようは大変なものだった。
それは「まるで先生から遠足の日どりをきいた小学校一年の教室のようだった」そうだ。
こうして、あきれたぼういず、レコードデビューへの道が開けたのだった。
【初めての吹き込み】
それから上山は浅草花月劇場の楽屋に通いつめ、あきれたぼういず達とともにレコード用の台本作りに取りかかった。
舞台でのあきれたぼういずの持ち時間は10〜20分ほど。
それに対して、レコードは片面3分半程度である。
そして上山も語る通り、消え物の舞台と違い「何度も繰り返し」聴くことが前提となる。
また、音だけで伝えるという制限もある。
この試行錯誤の作業に、なかなか手間取ったようだ。
ようやく「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」という4面2枚分の台本が完成したのは、上山によれば2ヶ月後のこと。
台本は無事に検閲も通過し、いよいよ吹き込みだ。
吹き込みは、吉本ショウ京都公演の前日だった。
京都での公演初日が1938(昭和13)年6月1日なので、つまり5月31日である。
京都へ出発する汽車の時間までに吹き込まなければならない。
しかし、これがなかなかに難航した。
その様子を、上山、坊屋、益田等がのちの座談会で語っている。
想像するだけでも愉快なレコーディング風景である。
かくしてレコード2枚分の吹き込みを無事に終え、京都行きの汽車に飛び乗った四人は、発売の日を楽しみに、東京をあとにした。
【参考文献】
「現代にも生きる『川田ぶし』」上山敬三/LPレコード「コミックソング:地球の上に朝がくる」/ビクター音楽産業株式会社/1964
「座談会・オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」益田喜頓・坊屋三郎・野口久光・上山敬三/LPレコード「珍カルメン・オリジナルあきれたぼういず」/ビクター音楽産業株式会社/1964
『日本の流行歌:歌でつづる大正・昭和』上山敬三/早川書房/1965
(次回9/3予定)レコードデビュー!