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(30)初レコーディング/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
あきれたぼういずに松竹楽劇団移籍の話が舞い込む。
四人は乗り気だったが、吉本興業・林弘高の反対で取り止めに。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【上山敬三との出会い】

少し時間は遡り、1938(昭和13)年春頃のこと(※1)。
有楽町のビヤホール「ニュートーキョー」でとあるパーティーがあり、ここにビクターの上山敬三が来席していた。
そこへ余興で出てきたのが、あきれたぼういずだった。

 ーー昭和十三年の夏、国民新聞から東京日日新聞(今の毎日)に移った佐伯孝夫氏、都新聞(今の東京)から東宝に転じた森満二郎氏、この二人の新しい出発を激励する会が有楽町のニュー・トーキョーで開かれた。
 ビールのアワが最高にたぎったころ、突如として、揃いの白の背広に真紅のバラを胸につけた四人の紳士が現われた。…(中略)… 演芸アラカルトの速射だった。一つ一つにどぎついギャグを入れて落す、相当以上に刺戟の強いものだった。アッという間の出来事(?)だった。

上山敬三「現代にも生きる『川田ぶし』」


初めて見るそのパフォーマンスに衝撃を受けた上山は、ぜひこれをビクターでレコード化したいと、翌日さっそく浅草へ出向いた。
喫茶「ブラジル」で待ち合わせたが、内心「浅草の人に会うのはこわかった」という。
そんな心中の反映か、あきれた四人に対する第一印象はおっかない。

 実のところ、小暗い喫茶店の片隅で、言葉少くぞろりととり巻かれたときは、正直いって快適ではなかった。青白くニヒルがかった顔の川田、ときどきニンマリと笑う坊屋、「あ、そースか、そースか」とおでこのてっぺんから空気の洩れたような声を出す、瞼の重いノッポの喜頓、キキキーと猿のような動物的笑い声を発する芝……まずは不気味そのものの雰囲気であった。一人で乗りこんだのが後悔された。

上山敬三「現代にも生きる『川田ぶし』」

しかし、レコードの話を持ちかけた途端、四人の喜びようは大変なものだった。
それは「まるで先生から遠足の日どりをきいた小学校一年の教室のようだった」そうだ。

 上山  「実は……」と言うと、「ワッ、レコードですかッ」「ビクターですかッ」「ワーッ」てね。こんなに喜んでくれるとは、ぼくも……。

「オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」座談会

こうして、あきれたぼういず、レコードデビューへの道が開けたのだった。

(※1…上山は著書等で「昭和十三年の夏」としているが、後述するレコーディングの日取りから逆算するに、五月以前である。)

【初めての吹き込み】

それから上山は浅草花月劇場の楽屋に通いつめ、あきれたぼういず達とともにレコード用の台本作りに取りかかった。

 上山  レコードはくり返しだから薄味ではいけない。うんと煮詰めなきゃいけない、漬物のように濃くしなきゃ……。だからそれに時間がかかっちゃった。毎日あの寝床のような楽屋に通いつめたわけです。つまり伐採の台本作りなんですよ。

「オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」座談会

舞台でのあきれたぼういずの持ち時間は10〜20分ほど。
それに対して、レコードは片面3分半程度である。
そして上山も語る通り、消え物の舞台と違い「何度も繰り返し」聴くことが前提となる。
また、音だけで伝えるという制限もある。
この試行錯誤の作業に、なかなか手間取ったようだ。

ようやく「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」という4面2枚分の台本が完成したのは、上山によれば2ヶ月後のこと。
台本は無事に検閲も通過し、いよいよ吹き込みだ。

吹き込みは、吉本ショウ京都公演の前日だった。
京都での公演初日が1938(昭和13)年6月1日なので、つまり5月31日である。
京都へ出発する汽車の時間までに吹き込まなければならない。
しかし、これがなかなかに難航した。

その様子を、上山、坊屋、益田等がのちの座談会で語っている。

 上山  しかもマイク1本ですよ。録音課長が古い人だから、動くとおこり出すわけだ。この人たちに動くなと言ったって無理なんですがね。(笑)動いたから感じもけっこう出たんだからね。
 坊屋  そうね。
 上山  動くなと言って、絨毯の上にチョークでマルを書いたわけだ。屋台のたたきみたいに。ところが今度はかたくなっちゃって、だめなんだ。
 益田  そんなことあったかなァ。
 上山  録音技師は録音のことしか考えないんだから。そのうち坊屋チャンがドナルドダックだのブルートーだのディズニー漫画をマイクを持ってやるもんだから……。(笑)
 坊屋  マイクに唾をひっかけるからね。
 上山  世界に誇るRCAのベロシティのマイクだ。世界に幾つしかねえ、と言うんだ。
 益田  そこへ唾をパッパッひっかける。(笑)
 上山  おれは、ついにやめてくれと言われたもんね。ただ営業部は何としてもやってくれ、と。
 益田  サブチャンがマイクをかかえこんでこうやるので、また盛り上がるのでね。ロックの歌手のように……。
 上山  それが始まったら、もうとまらないんだ。

(「オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」座談会)

想像するだけでも愉快なレコーディング風景である。
かくしてレコード2枚分の吹き込みを無事に終え、京都行きの汽車に飛び乗った四人は、発売の日を楽しみに、東京をあとにした。

 一日おいて、車中からの寄せ書きが届いた。「真っ直ぐ食堂にとびこみました」「いく度もいく度も乾杯しました。上山さんの分ものみます」「とても眠れそうもありません。京都までのみ明かします」「レコードを一日も早く出して下さい」熱っぽい文字が踊っていた。彼らの舞台のように……。

上山敬三「現代にも生きる『川田ぶし』」
当時ビクターの録音スタジオが入っていた、神田の丸石ビルディング。あきれたぼういずもここでレコーディングしたのだろう。

【参考文献】
「現代にも生きる『川田ぶし』」上山敬三/LPレコード「コミックソング:地球の上に朝がくる」/ビクター音楽産業株式会社/1964
「座談会・オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」益田喜頓・坊屋三郎・野口久光・上山敬三/LPレコード「珍カルメン・オリジナルあきれたぼういず」/ビクター音楽産業株式会社/1964
『日本の流行歌:歌でつづる大正・昭和』上山敬三/早川書房/1965


(次回9/3予定)レコードデビュー!

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