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(18)オオタケ・フォーリーと粟ヶ崎大衆座①/あきれたぼういず活動記

(前回までのあらすじ)
吉本興業のレヴュー団、グラン・テッカールに加入した川田義雄、芝利英、益田喜頓。
一座は目標であった浅草に進出したが、やがて解散。川田は他の吉本系列の一座へ参加。
一方、途中でグラン・テッカールから抜けた芝と益田は…

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【オオタケ・フォーリー】

一度は芝・益田とともにグラン・テッカールへ加入した大竹タモツだが、浅草へは行かずに関西に残り、自身の一座「オオタケ・フォーリー」を立ち上げた。

座員は総勢40名ほどで、旗上げは1933(昭和8)年12月頃、大阪の松竹座。
雑誌「映画と演芸」(1934年3月号)では、2月に公演した「続・弥次喜多仇討」の舞台写真とともに、
近頃売出しのオオタケは関西のエノケンだ。舞台でもロイド眼鏡をかけて一つの看板にしているなど頭がいい
と紹介されている。

オオタケ・フォーリーは「只野凡児」などの漫画の舞台化や、弥次喜多ものなどの時代劇コメディ(マゲモノ・ナンセンス)を得意とし、関西には珍しいスマートなコメディをやっていた。
公演プログラムを見ると他にコメディタッチのレヴュー、ダンスと歌のショーなどを併せて演っている。

「只野凡兒人生勉強」公演の舞台写真。
(京都日出新聞/1934年3月17日)

【芝利英加入〜活動休止】

1934(昭和9)年3月8日からは京都に移り、京都の松竹座で公演している。

この頃に芝利英もグラン・テッカールを抜け、オオタケ・フォーリーへ移籍してきた。
せっかく益田とともに夢の浅草に出てきたにもかかわらず、わずかひと月程で関西へ戻ったわけだ。
京都の舞台のほうが肌に合っていたのか、大竹を慕って来たのか、あるいは大竹のほうが芝を引き入れたのか。

この頃の主要なメンバーは以下の通り。

大竹保、大樹駄郎、久地木寛、丸久須也、白川夜舟、芝利英、小山田聖、野間春朗、東條玲子、遠山時子、加茂川清子、室町勝子、草川喜代子、秋秀子、南みどり、花岡千夜子

京都進出の際の写真。
右から3番目が大竹、4番目が芝のようにも見えるが…?
(京都日出新聞/1934年3月9日)

その後3月29日から浅草・常盤座で初上京公演。
新聞でも写真入りで紹介されるなど注目されたようだ。
浅草六区で、万成座のグラン・テッカールと常盤座のオオタケ・フォーリーが同時に公演していたことになる。

しかし、大竹が映画「お江戸紳士録」(同年12月公開)に出演することとなり、撮影に臨むためオオタケ・フォーリーの活動は一旦休止となった。

浅草公演の紹介記事。右が大竹、左は白川夜舟。
(都新聞/1934年4月2日)

【北陸の宝塚・粟ヶ崎遊園】

オオタケ・フォーリーが休止している間、芝利英が参加したのが石川県の「粟ヶ崎大衆座」だった。

▶︎粟崎遊園:https://www.lionpop.com/awagasakiyuuen/

当時、金沢のすぐ北に位置する内灘に「粟ヶ崎遊園」という広大な総合娯楽施設があった。
内灘砂丘6万坪の敷地に料亭、大浴場、旅館、遊戯場、動物園、野球場やスキー場、そして500人収容の余興場などを集めた遊園で、1925(大正14)年、石川県で材木王と言われた平澤嘉太郎が創設。

平澤は、小林一三の宝塚の事業に影響を受けたようだ。
小林は、箕面有馬電鉄の客寄せのために少女歌劇団を作り、これが「宝塚歌劇団」となった。
粟ヶ崎遊園も浅野川電鉄の付帯事業として作られたもので、やはり少女歌劇団を立ち上げて余興場で公演を行った。
一番の目玉は毎年行う「夏のおどり」で、遊園のそばの粟ヶ崎海水浴場とともにかなりの賑わいをみせた。

創設者の平澤が1932(昭和7)年に他界してからは、浅野川電鉄の専務・東耕三が経営を引き継いでいる。

「大金澤紹介」より、粟ヶ崎遊園と少女歌劇の紹介。
(北國新聞/1932年6月7日)

【明朗五人ボーイ】

そんな粟ヶ崎の歌劇団に芝利英が参加することになった経緯には、実は「マーカス・ショウ」が関係している。

マーカス・ショウとは、アメリカのレヴュー団「ニューヨーク・マーカス・レヴュウ団」の来日公演である。
招聘したのは吉本興業東京支社長の林弘高。
グラン・テッカールの旗上げといい、彼がレヴューにいかに力を入れていたかがわかる。

開場まもない日本劇場で1934(昭和9)年3月1日から45日間行われた「マーカス・ショウ」は連日超満員の盛況で、その後名古屋の御園座や大阪歌舞伎座でも公演を行った。

マーカスショウの広告(都新聞/1934年3月1日)

▶︎マーカスショウの内容をまとめてみた!吉本が召集した日本公演/歴ドラ.com

そのスピーディで迫力のある演出、歌あり踊りありアクロバットありのハイレベルなショーは、日本のレヴュー界に大きな刺激と影響を与えた。
粟ヶ崎遊園の劇団も、例外ではなかった。

6月14日の北國新聞には「歌劇部充実の粟ヶ崎遊園」という記事が出ており、

 レヴュウには必ず男の必要を痛感せしめたマーカスショーの例に鑑み唄も踊も巧な明朗ボーイ数名を加え珍趣向をもって十四日より揃って舞台に立つ

とある。
レヴューといえば少女歌劇や女性の踊り子達の活躍が中心であった日本だが、マーカス・ショウの影響で男優の活躍を重要視する声が強まっていた。
粟ヶ崎遊園でもこの流れに乗り、男性メンバーを補強することにしたようだ。
補強されたメンバーらは「明朗五人ボーイ」と称された。五人の顔ぶれは以下の通り。

 芝利英・増田ひろし・丸久須也・柳乗二・藤井とほる

芝利英と丸久須也は、オオタケ・フォーリーから流れてきたメンバーである。
そして「増田ひろし」は益田喜頓。
ここでは何故か、名前を変えている。「藤井とほる」は、芝と益田がかつて在籍した札幌のレヴュー団「赤い風車」の中心メンバーだった「藤井徹」(13〜15参照)だ。

この明朗五人ボーイ達、粟ヶ崎遊園が一から集めてきたわけではなかった。
彼らは元々、金沢の映画館「第二菊水倶楽部」のアトラクションに出ていたらしい。
オオタケ・フォーリーの活動休止で弱っていた芝達を、藤井が呼び寄せてくれていたのかもしれない。

ところが、第二菊水倶楽部での出演を突然打ち切られてしまい、途方にくれていたところ、粟ヶ崎遊園の東耕三に声を掛けられた。

 東耕三の好意で、藤井とほる一座は、兼六園内の旅館「兼六館」に泊まり、そこから毎日、粟崎遊園のステージに立った。やはり、このコミックなボーカルグループは新鮮で遊園の観客にうけた。広いホールが、いつもいっぱいになった。
 総勢八、九人という小所帯だったが、一座の中には坊屋三郎の弟であった芝利英や丸玖須也というコメディアンがいた。それに益田喜頓の枡田洋である。いってみれば粟崎で「あきれたボーイズ」の下地ができあがっていた。

高室信一『粟崎遊園物語』(※)

その公演内容については「ジャズありハワイアンありタップあり、あらゆる近代味の選出的気分をもってデビュー」という触れ込みだ。

︎(※)『粟崎遊園物語』
粟ヶ崎遊園については、高室信一の『粟崎遊園物語』(1998)で詳しく描かれている。
元々は北陸中日新聞に「昭和浪漫物語・粟崎遊園」として連載されていたものだ。
ただし「物語」として脚色されているため、データとして参考にするには少し注意せねばならない。

例えば、芝利英ら五人が粟ヶ崎遊園に招かれた経緯について、元々公演していた一座の座長・川上一郎が亡くなりその代わりとして呼ばれたことになっており、昭和7年のこととされている。
川上一郎が亡くなったのは確かに昭和7年だが、五人が来たのは先述のように昭和9年である。

「増田ひろし」が益田喜頓であるというのもこの『粟崎遊園物語』による情報で、他資料での確認が出来なかったので気になるところだが、益田が写った集合写真も掲載されているので粟ヶ崎遊園にいたことは確からしい。
赤い風車時代に世話になった藤井の一座なので、昔の芸名「牧ひろし」に半分だけ戻したのかもしれない。


【参考文献】
『にっぽん民衆演劇史』向井爽也/日本放送出版協会/1977
『粟崎遊園物語』高室信一/内灘町/1998
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『映画と演芸』/朝日新聞社/1934年3月号
「京都日出新聞」/日出新聞社
「都新聞」/都新聞社
「北國新聞」/北國新聞社

【参考ウェブサイト】
映連データベース/一般社団法人日本映画製作者連盟/http://db.eiren.org/
日本映画情報システム/文化庁/https://www.japanese-cinema-db.jp/
砂丘の夢、粟崎遊園について/awapage(44〇)/https://profile.ameba.jp/ameba/awapage
マーカスショウの内容をまとめてみた!吉本が召集した日本公演 | 歴ドラ.com/https://www.xn--gdk4ct16t.com/archives/10744


(6/11UP)明朗五人ボーイの活躍やいかに?

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