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(20)吉本ショウ始動/あきれたぼういず活動記

(前回までのあらすじ)
川田義雄は、吉本系列のピッコロ座や永田キング一座などに参加しつつ吉本ショウの始動を待っていた。
一方、芝利英は活動を再開したオオタケ・フォーリーに戻る。

▶︎今回からはいよいよ、あきれたぼういずを生んだ「吉本ショウ」について。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【浅草花月劇場と吉本ショウ始動】

吉本興業は、バラック小屋だった東京館を建て替え、4階建て・700人収容の浅草花月劇場を完成させた。
そして1935(昭和10)年11月20日、記念すべき第一回目の「吉本ショウ」公演を行った。

吉本ショウは「ショウ」を名乗っていることからもわかる通り「マーカス・ショウ」を意識し、それまでのレヴューとは違う、よりスピード感あるアメリカナイズされた舞台を目指した。
笑いとスリルとジャズの超特急」をキャッチコピーに、歌やダンス、漫才やコント等を次々に見せていく賑やかなステージを展開。
これは当時の新聞でも「踏み出す新形式漫才ショウ・吉本興行部が珍案出」として注目されている。(都新聞・1935年10月1日)

この記事によれば、従来は一本20分程であった漫才を3〜5分ほどに縮め、音楽ショウの間に混ぜ込んでいく。
そしてその演出等にも工夫を凝らし、全体で一つの統制のある出し物になっているという趣向だそうだ。
グラン・テッカールの頃から吉本興業はレヴューと色物演芸を併せて公演する独自のスタイルにこだわっていたが、それをさらに進化させたものといえる。
客席の反応は「この賑やかな出し物の中にハサまる漫才、漫謡、小唄は以上が賑やかに過ぎるだけに、却って変った気分にして受けているのが面白い」と、上々だったようだ。

浅草花月劇場開場とともに始まった、第1回吉本ショウの広告(都新聞/1935年11月20日)

ショウの出演者は、まず川田義雄や町田金嶺、タップ四銃士と称されるダンサーの四人(西條君江、櫻文子、棚木みさを、賀川龍子)など元「グラン・テッカール」の面々。
グラン・テッカール解散後は関西や横浜で他の一座に加わり、この浅草花月劇場の開場を待ち望んでいた。

そして漫才ショウの永田キング一党・新喜劇のピッコロ座・朝鮮舞踊の裴亀子楽劇団など吉本お抱えの一座に、演芸陣では小唄と映画模写の柳家三亀松・時事小唄(のんき節)の石田一松を筆頭とした人気芸人達。

さらに第一回公演では、特別ゲストとして東海林太郎、喜代三などのポリドール歌手や、松井翠声の司会、ベビータップのマーガレットユキが出演という豪華プログラムが話題を呼んだ。

その後も浅草花月劇場では、ショウや実演に漫才や小唄などの色物陣の出演、それに映画上映を加えた「カクテル興行」スタイルで売り出していく。(※第一回目はスペシャルプログラムだった為、映画はニュース映画のみの上映。)
さらに12月からは「新宿帝國館」を第二の吉本ショウ劇場として開場し、浅草花月劇場と同様の興行形式で公演を行った。

【オオタケ・フォーリーの参加】

芝利英の参加するオオタケ・フォーリーは、1935(昭和10)年12月から吉本興業所属となり、横浜花月劇場に出演。
年が明けて1936(昭和11)年2月からは新宿帝國館に登場している。

オオタケフォーリーの新宿初公演(朝日新聞/1936年2月1日)

同じ頃、アメリカで活躍した日本人タップダンサー、中川三郎が帰国。
吉本興業は彼を月給1350円という破格のギャラで迎えた。
ちなみに当時吉本でトップの給料をもらっていたといわれる柳家三亀松が500〜700円である。
ここからも、中川という存在に吉本興業、東京支社長の林弘高がかけていた期待と吉本ショウに求めた方向性がわかるだろう。

▶︎中川三郎:wikipedia

中川は3月31日から吉本ショウに参加。
同時に吉本ショウは浅草花月劇場と新宿帝國館での同時二ヶ所公演になる。

永田キング一党やオオタケ・フォーリー、ピッコロ座などのメンバーも座の垣根を越えて出演するようになっていき、やがては「吉本ショウ」に統合されたような形になる。
グラン・テッカール以来、久々の川田と芝の共演だ。

また、オオタケ・フォーリー後期に益田喜頓が参加していたことがあるらしいのだが、おそらくこの頃ではないかと思われる。
益田は粟ヶ崎遊園大衆座を辞めて上京してから、ムーラン・ルージュ新宿座などへ出演していたことは前に書いたが、他に奇術の松旭斎美天勝一座に加わって、大陸巡業(釜山、平壌、奉天、京城)へ同行していたこともあったらしい。
彼なりに、自分の道を模索していた時期かもしれない。
このあたりは益田の著書『キートンの人生楽屋ばなし』に詳しいが、省略されている経歴もありはっきりとした時期関係はわからない。

オオタケ・フォーリーに在籍した時期についても、新聞やパンフレットなどからは突き止められなかった。(座長の大竹タモツや、芝利英が出演している吉本ショウのパンフレットにも益田の名前は見当たらない。芸名を変えていたか、吉本ショウに参加していないオオタケ・フォーリーの座員が存在したのだろうか?)

ただ、1936(昭和11)年頃、芝利英の兄の石川壽氏が浅草で「スリイアス」という軽食喫茶を経営しており、その二階に益田も下宿していたようだ。

【坊屋三郎デビュー】

さらにこの春、吉本ショウのオーディションを受けて新たな座員が加入してきた。
本名・柴田俊英、名乗った芸名が「坊屋三郎」……日本大学を卒業した坊屋がついにデビューしたのだ。
芝利英にとっては、中学以来の思わぬ再会である。

「兄さん!」といわれたときは、あたしゃあオドロイたね。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

芝のほうがよっぽど驚いただろう。
夕張の寺を継ぐものだと思っていた兄が、突然同じ劇場に加入してきたのだから……。

「(11)坊屋の進学先」で書いたように、坊屋はまず日大の宗教科に入学。
一度予科を経由して、目当ての芸術科音楽部へ移った。
在学中は歌手の内田栄一に教わり、彼の主催するボーカルフォワー合唱団にも参加した。
そして1935(昭和10)年の春に日大を卒業、その後は1年間、声楽家の松山芳野里に師事していた。

歌手を夢見て上京した坊屋だったが、ちょうどレヴュー全盛の時期。
やがて「歌手ではなくてレビューの演出家になろう」という野心を持つようになった。

松山は、坊屋が歌手を志すきっかけとなった藤原義江とも関係が深い人物で、この坊屋の志望を聞き、藤原に口をきいてくれた。
そこから、イギリスへ渡って勉強して来いという話になったが、それには金が必要だ。駄目元で、実家である夕張の実相寺へ戻って相談してみたが、檀家達に囲まれて猛反対されてしまった。

「なに、イギリスへ行かなくても、日本でだって勉強はできる」と思い直したところへ、
松山から「おまえ演出家になりたかったら、自分で実際に舞台に立ってみなけりゃあダメだよ」と言われ、吉本ショウのオーディションを受けたというわけだ。

 思い出すねえ、あのときのオーディションであたしがやらかした奇妙な芸……。
 歌を歌ったのは、まあ普通だが、それがすむってえと、用意のカンカン帽をかかえて、マイクに向って指先でリズムを出したんだナ。それと同時に足はタップを踏んだんだ。
 これが受けたんだなァ。タップは、松山先生のところではやってなかったから、銀座へ行って稲葉実先生に習ってた。
 あのカンカン帽っての、マイクに近づけて指ではじいたり、ひっかいたり、叩いたり、リズミカルにやるとなかなかいい音がでるんだョ。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

この時点ですでに、ヴォードビリアンとしての彼の才能を現している。

こうして合格した坊屋が浅草花月劇場でデビューしたのと、芝利英のいるオオタケ・フォーリーが浅草花月劇場へ出るようになったのが、ほぼ同時期だ。
1936(昭和11)年5月21日からの公演広告に坊屋の名前が初めて登場し、
5月31日からオオタケ・フォーリーが出演している。


【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990一
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『月刊楽譜』1935年4月号/月刊楽譜発行所(※坊屋の卒業時写真確認)
「朝日新聞」/朝日新聞社
「都新聞」/都新聞社
「横浜貿易新報」/横浜貿易新報社


(6/25UP)吉本ショウでの3人の活躍ぶり

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