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(11)坊屋の進学先:北海中学③/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
坊屋三郎、芝利英の兄弟が通う北海中学に、益田喜頓が転入してきた。

▶︎中学卒業と同時に上京した坊屋だが…。

【坊屋の進学先】

1929(昭和4)年3月、坊屋は北海中学を卒業。
大学へ進学するために上京する。
学費は実相寺二代目住職・夏目貫道師が出してくれることとなった。
しかし、問題はその進学先である。

 実は、家にウソをついて上京していたのだ。つまり「坊主になる大学に入って立派な坊主になって帰ってきます」てんで、お許しを得て、「それなら毎月五十円の仕送りをするからしっかり勉強しなさい」というアリガタイお言葉もらった手前、どうしても坊主になる学校へ入らなければならない……という破目になってたわけですョ。
 だが、ほんとは坊主になるつもりなどサラサラないから、そんな大学なんかへは行きたくない。やたら、“音楽”なんて字のついてる学校が目について仕方がない……

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

テナー歌手・藤原義江の歌のとりこになっていた彼は、寺の本堂にポータブル蓄音機を持ち込んでレコードを聴いたりなどして、歌手になる夢をひっそりとふくらませていた。
「歌手になりたい」というのが、坊屋が上京した本当の動機であった。

 そうこうしているうちに、実相寺の方から駒沢大学を受けろという“指令”が来た。これは曹洞宗の学校だから、当然の“ごすいせん”だ。あア、とうとう、オレはボウズの学校に入るのか……と思った瞬間、一計がひらめいたんでス。
 “指令”通り駒大の試験を受ければいいではないか、そして白紙の答案を出せば、ミゴトに落第、それで行かずにすむ……あたし、われながらうまい一計に、思わずハタとわが膝を打ったネ。
 そして計画通りに落第。「一生懸命やったがダメでした。他の学校でガンバリます」テナ電報なんか打っておいて、さて、つぎに受けたその“他の学校”というのが、実は日大の宗教科。
 これまた一計が用意されていて、日大にはちょうど芸術科というのが出来たばかりだったので、頃合いを見て、宗教科からスライドしようとのコンタンだ。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

なんとも、坊屋らしいひらめきと実行力。
こうして日本大学宗教科に入学した坊屋は、やがて思惑通り芸術学部へ移り、バリトン歌手でもあった内田栄一に師事。
内田が結成していた「ボーカルホワー合唱団」にも参加して、日比谷公会堂のオペラ公演などのステージにも立ったという。

このあたりのことについて、実相寺で夏目貫道師のご息女・夏目シゲ氏からうかがった話では
駒澤大学に進学するはずが別の大学に進んで、どうも様子がおかしい。父(夏目貫道師)が東京の下宿を見に行くと部屋には俳優のポスターがいっぱい貼られ、当人はギターを弾いたりしている。二度程見に行ったが結局、寺を継ぐ気はないらしいと諦めた
ということである。
また帰省した際には、夏目師の奥様が毎日綺麗に磨いている離れの桜の木の廊下に靴で上がり、タップの練習をして、こっぴどく叱られたりしていたらしい。

また坊屋は日大でも自ら弓道部を立ち上げて弓道を続けている。
北海中学の後輩達が全国大会のために上京すれば上野駅へ迎えに行き、練習試合に付き合うなど相変わらずのマメさで、弓道にも熱心に励んでいたようだ。

【芝、部長となる】

一方、北海中学では1930(昭和5)年、坊屋に続いて芝が弓道部部長となる。

毎年部長が書くことになっている「選手短評」では、部員たちにあだ名をつけているのが印象的だ。
「マンチ、ケッパレ」「カブさんと仲良く」…等々。
和気あいあいとした部活の雰囲気が伝わってくる。

全国大会は僅差で準優勝という悔しい結果となり、部員皆で涙したという。
これが、11月のこと。

あとはただ卒業を待つのみ……かと思いきや、この直後、芝に大きな転機が訪れる。そのきっかけは、この弓道部であった。


【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『北海中学・北海高校弓道部100周年記念誌』北海高校弓道部星箭会100周年記念事業実行委員会100周年記念誌編集委員会/2013
『協学会誌』私立北海中学校(校内誌)/1928〜1931


▶︎(4/23UP)坊屋三郎という人

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