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(5) 函館の野球少年:益田喜頓①/あきれたぼういず活動記

▶︎前回までの川田篇につづき、
今回は益田喜頓の少年時代について。

 私は小学校時代からどうも夢多く友達に勝手な作り話をしては笑わせ、喜ばせ、時として迷惑をかけたこともありました。

益田喜頓『キートンの人生楽屋ばなし』

【父の蒸発】

1859(安政6)年に横浜、長崎とともに開港してから半世紀。
当時の函館は、世界各国の船が絶えず港に停泊し、水兵たちが街を闊歩するハイカラな街だった。

益田喜頓は、1909(明治42)年に函館青柳町に生まれた。
本名、木村一。六人姉弟の長男である。
益田の祖父・鹿造は北海道開拓で功績をあげた人物で、土木請負業で成功していたので、家はかなり裕福だった。
函館の北の七飯町には杉林に囲まれた別荘があり、蓄音器や三輪車もあった。

ところが、祖父から仕事を引き継いだ父・辰彦が事業で失敗してしまう。
辰彦は、妄想がちな性格もあり、アメリカで一旗挙げると言って出て行ったきり、いわゆる蒸発をしてしまった。
残された益田ら兄弟と母のヒデ、それに祖母とは借金だけを抱えて途方に暮れることとなった。

1916(大正5)年、益田が住吉尋常小学校へ入学した年に、一家は函館山のふもとの谷地頭町にある長屋へ引っ越した。
母・ヒデは着物の仕立てをやったり、裁縫・生花を教えたりしてなんとか一家を支えた。

【活動写真に夢中に】

 でも、やっぱり家がそういう貧乏をしたもんですから、母と兄弟六人で苦労したもんですから、悲しいことは嫌いでね、学校へ行っても、馬鹿なことを言ったり嘘をついたりして、同級生を笑わすことが大好きだった。

益田喜頓「キートンひきがたり①函館のころ」/『面白半分』1973年4月号

そんな彼が夢中になったのは、活動写真だった。
とくに短編喜劇が大好きで、チャップリン、キートン、ロイドなど夢中で観ては、教室で真似をしてみせた。

とはいっても、映画の入場料をしょっちゅう払えるわけではない。
映画館でピアノ弾きをしている近所のピアノ教室の先生と親しくなったり、
映画の宣伝のチラシ撒きを手伝ったり、あの手この手で無料で入れてもらっていた。

そうやって通い詰めた挙句、新聞記者などの大人に混じってシネマ研究会に参加。
そこで知り合った中に、広川という4、5歳ほど年上の男がいた。
彼はホラばかり吹くので「ホラ川」と呼ばれていたそうだが、そんなところも益田とウマがあって親しくなった。
彼はのちに益田が舞台の世界へ入るきっかけにもなった人物である。

【野球で活躍】

そしてもう一つ、益田の青春時代の中心になっていたのは野球だった。
住吉小学校は野球の名門校であり、益田は4年生のとき野球部の正メンバーになった。
普通は6年生で正メンバーになるそうだから、かなり実力があったのだろう。

1922(大正11)年、住吉小学校を卒業すると、弥生小学校高等科の野球チームにスカウトされて入学。
このとき投手と4番打者をつとめて優勝している。

その後、函館商業学校に進学、ここでも野球部で三塁手として活躍。
道内で「北中(北海中学校)の高瀬か、函商の木村か」といわれるほどの名選手だった。

また、この頃に母のヒデが湯の川という温泉町で旅館の女将代理をすることになり、そのそばへ引越した。
学校では相変わらず喜劇映画を再現して見せてはクラスメイトを笑わせていた益田だが、
とくにお気に入りだったバスター・キートンの真似が似ているというので、
いつしか「キートン」と呼ばれるようになった。
これをもじって、後に芸名「益田喜頓」を名乗ることになるのである。

 バスター・キートンが、マック・セネット時代に、何にもしないでぽっとたっているときがものすごく好きでねえ。あれがあとでペーソスとか、なんとかいうようにいわれるんですけれども、ぼくは、なんとなくそういうものが好きだった。

益田喜頓「コメディアン縦横談」/『喜劇悲劇』1973年1月号

【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1996
「キートンひきがたり①函館のころ」益田喜頓/『面白半分』1973年4月号より
「コメディアン縦横談」/『喜劇悲劇』1973年1月号 ※『小沢昭一座談(5)芸渡世浮き沈みーーアハハ』より引用
日本映画俳優全集男優編/キネマ旬報社/1979


▶︎(3/12UP予定)益田という人を思う

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